京都の歴史修学旅行レポート

粟田神社の歴史を修学旅行レポートとして提出いたします。

粟田神社階段

粟田神社鳥居
▲粟田神社の鳥居。鳥居をくぐれば境内までは坂道が。

粟田神社の歴史を修学旅行レポートとして。

こんにちは。
今回は粟田神社の歴史について記事にしました。

粟田神社(あわた神社)は京都の出入口の一つ、粟田口にある神社。
粟田口は昔から京都の出入口として機能してきた場所でして、現在でも京都都心部から車で東京方面へ出掛ける場合は粟田口を通ることが多いと思います。

粟田口近くには平安神宮や南禅寺、青蓮院などの観光名所も集まっており、平安神宮に行ったことがある人の中には粟田神社の存在に気付いた人もいるかもしれませんね。
しかしながら他県にお住まいの人で粟田神社のことを知っている人はほぼいないと思います。

今回は粟田神社の歴史を修学旅行レポートとして学校の担任の先生に提出するつもりで記事にしてみました。
粟田神社の本殿
▲本殿

旅の安全を見守る神様を祀る?

粟田神社は古くから京都の出入口に位置することから旅の安全を守ってくれる神様として信仰されてきました。
現代では道路や交通機関が発達しているので気軽に旅行ができますが、大昔は自分の住んでいる地域から他県に出ることは多大な時間やお金が必要なだけでなく、治安も安定していませんでした。
中には不運にも旅の道中で強盗に遭って命を落とすことも起こりました。

そのため京都から東京方面に出掛ける人達は、粟田神社で無事に目的地まで辿りつけるように祈願してきました。
ただし現在では粟田神社の存在自体があまり知られていないので、京都から出掛ける際に粟田神社に旅の安全を祈願する人はほとんどいません。
粟田神社の境内は土日でも静かな時間を過ごすことができます。

粟田神社舞殿
▲舞殿

誰が建てのか?

粟田神社は知名度は高くありませんが、長い歴史を持っている神社です。
平安時代の876年に当時の天皇だった清和天皇の命令によって建てられたと言われています。

当時は現代のように医学が発達していないので、人が集まる町では疫病が流行すると多くの人が亡くなってしまい、人々は疫病を大変恐れました。
そのため一般庶民だけでなく貴族や天皇も疫病を鎮めるために神様にお願いすることがよく行われていました。
現代人の感覚では理解できませんが、当時は神頼みで病気を治せると考えられていました。

祇園祭鉾
▲祇園祭の一コマ

粟田神社には八坂神社と同じ神様を祀っている。

粟田神社には祇園にある八坂神社で祀られている素戔嗚尊(スサノオノミコト)が祀られています。
素戔嗚尊は疫病を退治する力を持つ神様で、毎年行われる祇園祭も元々は疫病を素戔嗚尊に退治して貰いたいという願いを込めたお祭りと言われています。

なので、粟田神社では旅の安全ではなく健康を祈願したほうが効果があるかもしれませんね。

粟田神社階段
▲境内から鳥居までの参道

京都の出入口だけが粟田口の役割ではなかった。

私が粟田神社の存在を知ったのは、粟田神社から徒歩5分ほどの場所にある明智光秀の首塚を訪れた際に偶然に鳥居の前を通ったからです。
明智光秀の首塚とは、その名前の通り明智光秀の首が埋葬されていると伝わる場所のことです。

明智光秀と言えば織田信長を討った本能寺の変を引き起こした人物であることは誰もが知っていますよね。
しかし明智光秀はせっかく信長を討ちましたが、すぐに豊臣秀吉に討たれてしまいました。

そして豊臣秀吉は織田信長を討った明智光秀の亡骸を磔にして、粟田口で見せしめにしました。

粟田神社からの景色
▲境内からの景色

処刑場としての粟田口

現代の感覚では理解できなと思いますが、昔は罪を犯した罪人の亡骸は、人がよく通る場所に敢えて磔にして人々に見せつけることがよく行われていました。
ひとつの理由としては、罪を犯した者はこんなにもひどい罰を受けるという見せつけのためとも言われています。

そして磔にされた光秀の亡骸はいずれ片付けられて、ひそかに近所の人が彼の亡骸を埋葬しました。それが光秀の首塚という訳です。
また粟田口は光秀だけでなく罪人の処刑場としても機能してきた歴史もあるのでした。

粟田神社へのアクセス方法

京都駅から粟田神社へは平安神宮を観光してから立ち寄るか、青蓮院を観光してから立ち寄るかの2択かと思います。

平安神宮を観光する方は京都駅から平安神宮前行きのバスに乗り、青蓮院を観光する方は京都駅から祇園か八坂神社行きのバスに乗って向うと良いと思います。