京都の歴史修学旅行レポート

京都大覚寺の歴史を修学旅行レポートとして提出します。

大覚寺の勅使門

大覚寺の勅使門
▲大覚寺の勅使門

大覚寺の歴史を修学旅行レポートとして。

こんにちは。
今回は京都にある大覚寺(だいかくじ)の歴史について記事にしました。

大覚寺は観光名所の嵐山エリアから徒歩15分程の場所にあるお寺です。
もしも「京都でおススメのお寺を教えて下さい。」と聞かれれば、私は大覚寺が好きですと答えますね。(^^♪

大覚寺は正式名称を旧嵯峨御所大本山大覚寺と呼ばれる通り、鎌倉時代末から室町時代にかけて天皇が生活をしていた時代のあるお寺になります。
そのため大覚寺の境内は上品な雰囲気が漂い、佇まいも大変美しいところが好きです。
京都旅行で嵐山を訪れる際は是非とも大覚寺まで足を延ばして頂きたいと思います。嵐山エリアは平安時代の頃から貴族達の別荘地として発展してきましたので、自然の景観も美しい場所として現代人にも人気のあるエリアになっています。

今回は大覚寺の歴史について修学旅行レポートを担任の先生に提出するつもりで記事にしてみました。

大覚寺の大沢池
▲大覚寺の境内から眺める大沢池

大覚寺は平安時代に別荘として歴史をスタートさせました。

大覚寺は平安時代の嵯峨天皇の別荘として建設されたことが始めです。
境内には人工的に池が建造されており、大覚寺のすぐ隣にある大沢池は日本最古の人工池としても知られています。

鎌倉時代から室町時代の間にある南北朝時代には、ひとつの時代に天皇が2人存在するという異常事態になったことを学校の授業で習いました。
皇室が北朝と南朝に分れて北朝を持明院統、南朝を大覚寺統と日本史の教科書にも太線で掲載されていましたよね。その大覚寺統の大覚寺の由来となったお寺になります。

大覚寺統の亀山天皇、後宇多天皇、後醍醐天皇がここ大覚寺で生活をしながら政治を行っていた歴史を持っているのです。
大覚寺の御輿
▲大覚寺に展示されている御輿

なぜ皇室は2つに分かれてしまったのか?両統迭立のきっかけとは。

私は大学受験で日本史を選択したこともあり人並み以上には日本史を勉強したつもりなのですが、日本史の中でも南北朝時代が大嫌いでした。

南北朝時代には両統迭立(りょうとうてつりつ)と呼ばれる皇室が2つに分かれて交互に天皇の地位に就くという謎の出来事が起こりました。
当時の私には何故そんな複雑なことが起きたのか理解できないだけでなく、何人もの天皇の名前と天皇に就いた順番などを無駄に暗記することが苦痛でした。(*_*;

そして2つに分れた皇統のうちの一つを大覚寺統と呼ぶのですが、まさか大覚寺のことを好きになる時が来るとは想像もしていませんでした。笑
大覚寺の襖絵
▲大覚寺の襖絵

後鳥羽上皇の鎌倉幕府に対する反乱に敗北したことで幕府の圧力が増加。

学校の教科書でいう承久の乱と呼ばれる戦争です。
結果は鎌倉幕府の武士達の強さには歯が立たずに、後鳥羽上皇は幕府によって天皇の座から排除されました。

幕府としては二度と朝廷が幕府に対して反乱を起こすことの無いように、後鳥羽上皇の後任には承久の乱を起こすことを反対していた土御門天皇を選びました。

朝廷側は後鳥羽上皇の血を引き継ぐ順徳天皇や仲恭天皇を後任にしたかったのですが、幕府の反対により断念しました。
承久の乱によって次の天皇を誰にするのかを幕府が関わるようになったのでした。ちなみに今までは次の天皇は朝廷だけに決定権がありました。

そのため土御門天皇は幕府のおかげで天皇になれた部分もあることから、幕府の意向に沿って政治を行うようになり、土御門天皇の息子である後嵯峨天皇も幕府の顔色を伺いながら生活することになりました。
大覚寺の外観
▲大覚寺の外堀

後嵯峨天皇が長男よりも次男を優遇したことが原因。

後嵯峨天皇には後に後深草天皇と亀山天皇になる兄弟がいました。
長男の後深草天皇(ごふかくさ天皇)は長男なので間違いなく後嵯峨天皇の後を継ぐ存在でしたが、幼い頃から病気しがちな体の弱い人でした。

一方で次男の亀山天皇(かめやま天皇)は見た目も頭も良くて、後嵯峨天皇も心の内では長男の後深草天皇よりも次男の亀山天皇に後を継がせたいと強く願うようになりました。

そのため後嵯峨天皇は長男の後深草が結婚して子供ができる前に、天皇の座から降ろして次男の亀山天皇を天皇にしてしまいます。
この時は後嵯峨天皇と後深草天皇の2人が上皇で、亀山天皇は天皇に就くという上皇が2人も存在する状態でした。

スポンサードリンク

大覚寺の襖絵②

天皇の座を巡り兄弟対立。

そして後嵯峨天皇が亡くなった後に長男の後深草天皇と次男の亀山天皇の間でどちらが正統の天皇なのか争いが勃発します。(天皇になれない子供は貧乏になることが多いので後深草天皇は必死です。)

鎌倉幕府は当時は元寇の真っ最中だったため、皇室の争いに関与している場合ではありませんでした。そのため幕府は後嵯峨天皇の妻であり、後深草と亀山の母親に生前の後嵯峨天皇はどちらの息子を正統としていたのかを聞きました。すると亀山天皇であることがわかり、幕府は亀山天皇を正統な後継ぎとして決定したのです。

その決定を聞いた後深草天皇は不満を主張して、幕府に対して自分は長男なのに何故こんな目に遭うのかと訴え続けます。すると鎌倉幕府の執権だった北条時宗は後深草天皇の状況に配慮して、亀山天皇の息子である後宇多天皇の次は後深草天皇の息子を天皇にして、後深草天皇は上皇とすることを決めました。

それ以降は後深草天皇の子孫と亀山天皇の子孫が交互に天皇になる仕組みが作られたのでした。これを学校の授業でも習った両統迭立(りょうとうてつりつ)と言います。そして後深草天皇の皇統を持明院統、亀山天皇の皇統を大覚寺統と呼ぶことにしたのです。

大覚寺統の大覚寺とは大覚寺において亀山天皇、亀山天皇の息子である後宇多天皇が生活していたことから名付けられました。
つまり皇室が2つに分れた原因は後嵯峨天皇が長男よりも次男の亀山天皇を優遇したことが原因と言えるのです。
大覚寺の勅使門
▲大覚寺の勅使門

後醍醐天皇による鎌倉幕府への反乱から南北朝時代へ

大覚寺統の亀山天皇の孫である後醍醐天皇は、持明院統と大覚寺統が交互に天皇に就くことが大変不満でした。
持明院統と鎌倉幕府を排除することができれば、自分の子孫が天皇を継ぐことができるので鎌倉幕府を倒すことを計画します。

結果的には後醍醐天皇に共鳴した足利尊氏や新田義貞、楠正成などの有力な武士達の活躍により鎌倉幕府を倒し、持明院統も排除して後醍醐天皇とその子孫達が天皇の座に就くことに成功しました。

しかし後醍醐天皇による建武の新政と呼ばれる貴族を中心とする政治体制が武士達にとって大変不満が噴出するような大失敗なものとなりました。
そのため足利尊氏が中心となって後醍醐天皇を天皇の座から引きずり降ろして、代わりに持明院統の天皇を正統な天皇として皇位に就かせました。

後醍醐天皇は必至に抵抗を試みて京都から奈良の吉野地方へと逃亡して、自分が正統な天皇であると主張し続けて足利尊氏と持明院統に対抗しました。
これにより一つの時代に二人の天皇が存在する異常事態が発生した訳です。持明院統を北朝、大覚寺統を南朝と呼ぶ南北朝時代が始まったのでした。

しかし最終的には南朝が次第に衰退していき、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇へ譲位が行われるという形式を取って南北朝時代は終わりました。

当時の情勢からすると圧倒的に北朝が優勢でしたが、南朝の面子を配慮して南朝から北朝へ譲位が行われたと、あくまでも形式上は南朝を敬いました。そして大覚寺はこの南北朝の合一の儀式が行われた場所になりまして、大覚寺は南北朝時代の始まりと終わりの舞台となった歴史を持つお寺になります。

大覚寺へのアクセス方法

京都駅からJR嵯峨野線に乗って嵯峨嵐山駅で降りてから徒歩15分程で到着です。観光名所の嵐山エリアを観光する際に一緒に巡ることがおススメです。

駅から降りた後は人の流れに付いていくと、ほとんど嵐山のトレードマークである渡月橋に流れ着くと思いますので、渡月橋から嵐山観光をスタートしましょう。(^^)/