▲南禅寺の三門
南禅寺の歴史を修学旅行レポートとして。
こんにちは。
今回は京都の南禅寺の歴史について記事にしました。
南禅寺(なんぜんじ)は京都の観光地の中でも紅葉の名所として知られるお寺です。
銀閣寺と南禅寺が哲学の道で繋がっていることもあり、桜と紅葉の時期には多くの観光客が訪れる京都の定番観光コースになっています。
また南禅寺の名前をご存知ない人でも、安土桃山時代に活躍した盗賊の石川五右衛門が大きな三門の上に登って「絶景かな。絶景かな。」と町を眺めている場面をテレビや漫画などで見たことがある人は多いのではないでしょうか?
まさにここ南禅寺の三門こそが石川五右衛門が登った場所でもあります。
最近では歌舞伎役者の市川海老蔵さんが石川五右衛門を演じたドラマ「石川五右衛門」でもその場面が演出されていました。
今回は南禅寺の歴史を修学旅行レポートとして学校の担任の先生に提出つもりで記事にしてみました。
▲紅葉の時期の南禅寺
誰が南禅寺を建てのか?
南禅寺は鎌倉時代の1291年に亀山天皇によって建てられました。
亀山天皇と言えば、中国大陸から皇帝フビライ率いる元軍が日本を襲撃した元寇の頃に天皇だった人であり、歴史教科書では両統迭立(りょうとうてつりつ)が成立した頃に天皇でした。
亀山天皇は兄に後深草天皇がおり兄の次に天皇になったのですが、弟の亀山天皇の次に天皇になるのは亀山天皇の子供なのか、兄の後深草天皇の子供なのかで権力争いが起きました。
そこへ鎌倉幕府が仲裁に入り今後は弟と兄の子孫が交代で天皇になることを決め、その仕組みを両統迭立としました。
また亀山天皇と言えば、元寇の際に国の危機を救うために神社やお寺を訪れては神様にお祈りをしたことで知られています。
もちろんそんなことに意味がある訳ないのですが、当時の貴族達は亀山天皇が神様に祈り続けたことで元軍が大陸に引き返したと信じ、武士達の活躍を評価しませんでした。
▲三門から法堂を眺める
愚かなる天皇と貴族達
言うまでもなく元軍から国を守ったのは鎌倉幕府の武士達です。
当時の鎌倉幕府のトップだった執権、北条時宗の指揮の元に結集した鎌倉武士達の命がけの戦いにより国を守ることができました。
もし鎌倉武士達がいなければ、元軍は最初に上陸した博多沿岸から九州内部に拠点を作り、どんどん日本の首都である京都方面へ軍を進める一方で、中国大陸からはさらなる援軍が派遣されて日本は侵略されていたでしょう。
それができなかったのは鎌倉武士達が何とか沿岸部で踏ん張ったからです。そのおかげで元軍は夜になると一旦は船に乗って海の上で待機していました。
そしてそこへ偶然にも台風が来たおかげで元軍は引き返すことになったのです。
当時の貴族達の愚かさと武士達の現実的な姿勢が理解できます。
▲南禅寺入口
京都五山で最も高い格式
亀山天皇によって建てられた南禅寺は、亀山天皇の孫にあたる後醍醐天皇によって京都五山と呼ばれる禅寺の格付け制度の中で最も位が高いお寺に位置付けられました。
その後に室町幕府が設立されてからも南禅寺は幕府から大事にされ続けました。
室町幕府三代目将軍の足利義満が相国寺を建てた際に、義満は自分が建てた相国寺を京都五山の一番目に格付けしましたが、南禅寺は京都五山のさらに上のランクのお寺として格付けし直しました。それにより南禅寺は日本の禅寺の中では最も位が高いお寺として位置付けされています。
▲三門
石川五右衛門「絶景かな!絶景かな!」は作り話
南禅寺の見所の一つに大きな三門があります。
京都の三大門のうちの一つに数えられ、その大きさと美しさから多くの人が三門の前で記念写真を撮っている光景をよく見かけます。
南禅寺の三門には安土桃山時代に実在した盗賊である石川五右衛門とゆかりがあることが知られています。
石川五右衛門が三門の上から「絶景かな。絶景かな」と京都市街地の景色を見て言う台詞を聞いたことがある人も多いでしょう。
この場面は歌舞伎の演題「楼門五三桐」に描かれ、市川海老蔵さん主演ドラマ「石川五右衛門」の中でも場面が描かれていました。
ところが実際には三門が建設された時には石川五右衛門は既に亡くなっていたので、石川五右衛門が三門の上に立つことは時間軸からあり得ないことがわかっています。
そのため石川五右衛門の名場面は実は作り話です。
ちなみに石川五右衛門を演じた市川海老蔵さんは京都で歌舞伎の公演がある時には、よく早朝に南禅寺の境内を散歩しているという話を京都人から私は聞いたことがあります。
▲南禅寺水路閣
徳川家康の側近として活躍した崇伝。
鎌倉時代から室町時代にかけて繁栄した南禅寺でしたが、応仁の乱で被災してから戦国時代を経て徳川家康が江戸幕府を設立するまでは荒廃していました。
しかし徳川家康から信頼を得た崇伝(すうでん)という僧侶が南禅寺に来てからは、南禅寺の建物は再建されて復興を遂げることができました。
崇伝は当時の人達から「黒衣の宰相(さいしょう)」と呼ばれ、家康が実施した武家諸法度や禁中並公家諸法度、キリスト教の禁止などの法律は崇伝が考案しました。
家康の側近として世の中の仕組みを作り、社会を動かしていたことから黒衣の宰相と呼ばれました。黒衣とは僧侶が着る服のことで、普通は僧侶は政治に関与しないところを僧侶でありながら政治を動かす宰相(さいしょう)として黒衣の宰相と揶揄しました。
▲南禅寺の紅葉
お寺は政治とどう関わるかで繁栄が決まる?
徳川家康による豊臣家を滅亡させるための戦いとなった大阪の陣のきっかけとなった、方広寺鐘銘事件を引き起こしたのも崇伝の入れ知恵と言われています。
また崇伝は僧禄司(そうろくし)と呼ばれる僧侶を取り締まる立場の位に就いたことから全国の僧侶のトップとしても権力を握りました。
そのため南禅寺は徳川家康との縁が深い崇伝のおかげで現在もその立派な姿を残すことができました。
京都には徳川家とゆかりのあるお寺が多く、いかに上手く権力者と良い関係を築くことができるかで自分達が繁栄できるか荒廃するかの運命を決めてきたことを感じた。
南禅寺へのアクセス方法
京都駅から南禅寺へはバスか地下鉄で行きます。
私は京都で極力バスに乗りたくない派なので電車で移動します。理由は渋滞や満員バスに貴重な休みの日まで巻き込まれてストレスを感じたくないからです。。。
京都駅から地下鉄で烏丸御池駅まで行き、東西線に乗り換えて蹴上駅(けあげ駅)で降りたら徒歩5分ほどで南禅寺に到着です。
(京都駅から蹴上駅まで乗車時間:15分。乗車賃:260円 )