京都の歴史修学旅行レポート

竜安寺の歴史を修学旅行レポートとして提出します。

竜安寺方丈前

竜安寺石庭
▲竜安寺の石庭

竜安寺の歴史を修学旅行レポートにて。

こんにちは。
今回は竜安寺の歴史について記事にしました。

竜安寺(りょうあんじ)は美しい石庭があることで知られるお寺です。
テレビや雑誌などで一度は石庭を見たことがある人が多いのではないでしょうか?
竜安寺は世界遺産にも登録されており、日本人だけでなく海外の観光客にも人気のある観光地となっています。

色鮮やかに彩られたものは何も無いにも関わらず、石だけで造られた光景に多くの人が引き込まれてしまいます。
いったい石庭を造った人は見る者に何を伝えたいか?石の並びに意味はあるのか?現代に生きる私達は竜安寺の石庭から何を受け取れば良いのだろうか。

でも急にそんな難しいことを問いかけられても答えることは私にはできない。だた静かに眺めるだけ。
そういえば最近の普段の生活の中で静かに何かを考えることも無かった。
たまには美しい石庭を眺めながら、答えの無さそうな問題に取り組んでみようかな。笑

今回は竜安寺の歴史について修学旅行レポートを学校の担任の先生に提出するつもりで記事にしてみました。

竜安寺庫裏
▲竜安寺の庫裏前

誰が竜安寺を建てのか?

竜安寺は元々は平安時代の歌人だった藤原実能(さねよし)の別荘地として建てられた徳大寺というお寺でした。
そして室町時代の1450年に室町幕府の足利将軍家を支える管領の一人である細川勝元が徳大寺を譲り受け、勝元は徳大寺を自分が信仰している禅宗のお寺に改築しますが、京都の市街地が戦場となった応仁の乱が勃発したことで被災して焼失。

その後は勝元の息子である細川政元によって復興され、その時に石庭も造られたと伝わっています。
伝わっているというのは、この後も何度も竜安寺は火災にあっていることもあって明確なことが不明であるからです。。。
竜安寺方丈前
▲竜安寺方丈前に石庭があります。

竜安寺は銀閣寺と共に東山文化を代表する建物。

東山文化とは銀閣寺が東山の麓にあることからその名前が付けられ、室町時代後期に生まれた侘び寂びや幽玄さを持つ文化のことを指します。

侘び寂びとは侘しさや寂しさの中にある美しさを評価するもの。
ただ古びてボロボロになっていれば何でも良いのではなく、古さの中にも何か美しさや、品の良さを感じるものです。

銀閣寺や竜安寺には鮮やかに彩られた建物や絵画はありません。木や石や岩などの自然を取り入れた境内に人は美しさを感じてしまうのです。
美しいと言えば、金閣寺のように金色に光輝く美しさや、宇治の平等院鳳凰堂のように朱色に彩られた美しさなど、美しさにも種類があります。

東山文化とは銀閣寺や竜安寺のように色鮮やかな装飾などは必要とせずに、自然の中にある美しさと人の感性を織り交ぜ、金閣寺とは別の美しさを表現したものになります。後の時代の千利休にも影響を与えました。

竜安寺の石庭
▲竜安寺の石庭

石庭の意味

竜安寺の石庭には15個の岩が配置されています。
私達は方丈から石庭を眺めることになるのですが、どこから石庭を眺めても一度に15個の岩が全て見えることはありません。
どの角度から見ても必ずどれかの岩が岩の影に隠れてしまい、全ての岩を見ることができないのです。

そのため一説にはこの石庭には、どんなに大きな権力を握ろうとも、多くの知識を得ようとも、世の中の全てを見ることはできないということを私達に伝えているとも言われています。

しかし竜安寺の石庭にどんな意味があるのか?は謎のままです。
竜安寺のパンフレットにも鑑賞する人に解釈が委ねられていると記載されており、石庭の作者の意図は明らかにはなっていないのです。

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細川政元肖像画
▲細川政元肖像画 wikipediaよりお借りしました。

細川勝元・政元親子

竜安寺を建てた細川勝元とその息子の政元は室町幕府において、管領と呼ばれる将軍の側近として政治を行う重要な地位で活躍をした人物です。

室町幕府は金閣寺を建てた三代目将軍の足利義満の頃は将軍の権威も大きく、将軍の指示によって政治が実施されていたのですが、時代が経つにつれて将軍の権威は低下していきました。

京都を舞台に11年続いた応仁の乱の頃には足利将軍とは名ばかりで、実質的には細川家の権威によって政治が実施されるようになり、細川政元は当時の人々から「半将軍」と呼ばれるような存在で、細川家によって裁判なども執り行われるようになりました。
竜安寺石庭しだれ桜
▲春には枝垂れ桜が咲く。

細川政元は信長より先に延暦寺を焼き打ちにしている。

室町幕府十代目将軍の足利義材は低下し続ける将軍の権威を取り戻すために細川政元に抵抗する姿勢をみせますが、政元は強い軍事力を持ってして義材を将軍職から降ろしてしまいました。

また義材が幽閉先から延暦寺へ逃亡した際には、政元は怒りで延暦寺を焼き打ちにできるほど当時は強大な権力者でした。延暦寺の焼き打ちと言えば、織田信長が有名ですが信長が初めてではありませんでした。

しかし戦国時代になると愛知県から織田信長という新たな強者が京都を支配するようになり、細川家は時代の主役の座から降りることになるのです。

竜安寺へのアクセス方法

京都駅から竜安寺へはバスで行くのが簡単だと思います。
竜安寺から徒歩15分ほどのところに嵐山電鉄の竜安寺駅がありますが、京都駅から竜安寺駅まで行くには途中で乗り換えも必要ですので面倒かと思います。

竜安寺の前にはきぬかけの道と呼ばれる観光道路が通っており、道沿いに金閣寺や仁和寺があります。
竜安寺も含めて3つの世界遺産が隣接していますので、竜安寺を訪れた際は一緒に巡ることをおススメします。
竜安寺山門
▲竜安寺の山門