京都の歴史修学旅行レポート

蛤御門の変(禁門の変)の歴史を修学旅行レポートとして提出します。

蛤御門の石碑
▲蛤御門の石碑

蛤御門の変の歴史を修学旅行レポートにて。

こんにちは。
今回は蛤御門の変(禁門の変)について記事にしました。

蛤御門の変(はまぐりごもんの変)とは江戸時代の末期、いわゆる幕末の京都で起きた事件です。
現代風に言うと「テロ事件」と言っても差し支えないでしょう。

幕末の京都において坂本龍馬が仲介したことで有名な薩長同盟(さっちょう同盟)の「長」に当たる長州藩(現在の山口県)の過激派が、山口県から軍隊を率いて京都市内で天皇が住む京都御所に大砲を打ち込み、京都御所を必死で守る薩長同盟の「薩」に当たる薩摩藩(現在の鹿児島県)と会津藩(現在の福島県)や新撰組との攻防戦が蛤御門の変でした。

京都御所は現在は観光名所として多くの観光客が訪れる場所となっていまして、蛤御門の変の名前の由来となった京都御所を守る門の一つである蛤御門は当時の銃痕もそのままの姿で残っております。

今回は蛤御門の変(または禁門の変)について学校の担任の先生に修学旅行レポートを提出つもりで記事にしてみました。

蛤御門の画像
▲蛤御門

蛤御門の変で京都の町は火の海と化した。

蛤御門の変とは別名を禁門の変と呼びまして、高校の日本史の教科書には太字で記載されている出来事です。

当時の長州藩は現在の山口県から武器を装備した軍隊で京都に乗り込み、現在の京都市の西の端である世界遺産の天龍寺と京都市南部の伏見方面の二手から京都御所に侵攻し、当時の天皇だった孝明天皇を拉致することを目的としました。

そのため江戸幕府や京都御所を警護する人達は天皇を守るために長州藩と激突。
幕府側には西郷隆盛が指揮を執る薩摩藩や新撰組も参加して、京都の町を巻き込んだ戦争となりました。この戦いによって京都の町では住宅約3万戸が焼失し、町には死体が転がる悲惨な状態となるなど当時の世の中では大事件となりました。
麩嘉の店構え
▲生麩まんじゅうで有名な麩嘉

当時の京都では蛤御門の変は大事件。

ちなみに蛤御門の近くにある江戸時代から続く生麩で有名な麩嘉(ふうか)は被災したおかげで、蛤御門の変以前のレシピやお店の歴史的資料などが一切残っていないそうです。

京都御所近くに住む人達の生活が脅かされたことをリアルに感じますが、長州藩と言えば薩長同盟により鎖国する江戸幕府を倒して明治維新によって日本を近代国家に築き上げた正義の藩というイメージを私は持っているのですが、蛤御門の変の内容だけを知ると悪にしか見えません。
一体どういうことなのでしょうか?(^^;)

蛤御門の銃痕
▲蛤御門の変に残る銃痕

長州藩は正義の味方なのか?それとも悪なのか?

学校の歴史の授業で習った通り、長州藩は薩摩藩と同盟を結んで江戸幕府を倒しました。
そして明治時代が訪れて日本は欧米諸国を見習って急速に近代国家への道を歩み、現在の日本が先進国の地位にあるのも、ある意味では明治維新のおかげだと言えるでしょう。

そのため江戸幕府=悪であり、薩長同盟=正義であると学校では習ったと記憶しているのですが、蛤御門の変当時の長州藩は正義と呼べる存在ではありません。
薩長同盟が成立したのは1866年であり蛤御門の変から2年後の出来事ですので、2年間で敵対関係だった薩摩藩と長州藩はなぜ同盟を結んだのか不思議で仕方がないです。
蛤御門を潜ると見える風景
▲蛤御門を通って京都御所へ

江戸幕府=開国したい。 長州藩=鎖国維持したい。

長州藩はアメリカからペリーが黒船で来日して以来、開国反対であり江戸幕府よりも天皇が日本を統治すべきであると主張してきました。

もう一度言いますが、開国には反対であり外国人が日本の土地に足を踏み入れることに断固反対であり、山口県に接する関門海峡を通る外国船に対して大砲を打ち込む人達でした。

そのため長州藩はアメリカと日米和親条約や日米修好条約を結んで開国する江戸幕府と対立していたのです。
そして当時の天皇だった孝明天皇も開国に反対だったために、天皇が住む京都には反幕府勢力が全国から集まるようになり、開国反対であり幕府と敵対する勢力が幕府に代わって天皇を政治の頂点に据えようと活動し、その中心に長州藩がいました。

▲現在の池田屋跡地には居酒屋チェーンのはなの舞の池田屋が営業中。

長州藩は京都でめちゃくちゃ暴れ回った。

しかしその活動内容が非常に過激でして、幕府と親しい公家や商人を次々に暗殺していきました。そのため当時の京都は治安が悪く、毎日のように殺人が行われる状態でした。

そこで登場するのが有名な新撰組であり、新撰組は幕府側の組織として京都の町で活動する反幕府勢力を取り締まりました。
そして有名な池田屋事件では、池田屋と呼ばれる旅館で幕府側の人間をどう暗殺しようか長州藩など反幕府勢力が打ち合わせをしていた部屋に新撰組が突入して反幕府勢力を一毛打尽にしたのでした。

さらには八月十八日の政変と呼ばれる、朝廷内で反幕府思想を持つ長州藩の息がかかった公家達も朝廷から追い出された政治的事件も発生したために、反幕府を実現したい長州藩は苦しい状況へ追い込まれていきます。

そしてその情勢で起死回生の一手として実行したのが、京都で武力行使を用いて孝明天皇を長州藩(山口県)に拉致すること目的にした蛤御門の変が起きたのでした。

スポンサードリンク

京都御所の壁
▲京都御所を囲む壁

西郷隆盛率いる薩摩藩や新撰組の活躍により長州藩は敗北。

京都御所は塀に囲まれており、東西南北に大きな門がいくつかあります。
その中でも西側にある蛤御門の前で最も激しい戦闘が行われたことから蛤御門の変と呼ばれるようになりました。

現在も蛤御門は現存しておりまして、長州藩が放った銃痕が門に残っています。蛤御門は幕府側の守りが破られて長州藩兵士達が京都御所内に流れ込みました。しかし西郷隆盛が率いる薩摩藩が蛤御門を突破した長州藩を撃退し、天皇を守ることができました。

蛤御門の変の後に長州藩は天皇からも反逆者と見なされて、長州征伐と呼ばれる幕府軍の侵攻を受けることとなります。
さらに関門海峡を通る外国船に大砲を打ち込んだ報復としてアメリカ・イギリス・オランダ・フランスの連合軍からも侵攻されることになり、長州藩は今の力では文明の進んだ外国にはどうやっても勝てないことを感じたのでした。
京都御苑の景色
▲京都御苑は市民に開放されて憩の場となっています。

長州藩も鎖国維持派から開国派へ。

そのため考えを鎖国維持から開国へとガラッと変えて、貿易を通じて国力を蓄えた後で再び外国と戦う方針を作りました。
一方でそれまでは幕府よりだった薩摩藩は、江戸幕府ではアジア諸国を次々と植民地化している欧米諸国には勝てないと考えるようになり、自ら幕府を倒して新しい強い国を作ることを考えます。

そこへ坂本龍馬が登場して、当時では江戸幕府以外では大きな軍事力を持っていた薩摩藩と長州藩が手を結んで江戸幕府体制を倒し、欧米諸国に植民地化されないようなしっかりとした国を作ろうと動き出したのでした。

その後は徳川慶喜による大政奉還も実施されたことで政権が徳川家から朝廷に返還されますが、薩摩藩と長州藩を中心とした新政府軍と幕府は鳥羽伏見の戦いを皮切りに戦争へと突入し、特に東北地方では幕府側に立つ諸藩は多くの命が犠牲となりました。

一般的には江戸城が無血開城されて国内戦争は起きなかったかのように学校では習いますが、江戸以外の場所では多くの犠牲が伴い無残な死を遂げた人がたくさんいました。
蛤御門の変が起きた場所

もしも薩長と幕府が手を結んでいたら。

あらためて幕末の歴史を考えますと、新政府軍と幕府が戦争する必要があったのかな?と疑問に思います。
なぜなら江戸幕府は可能なら鎖国を維持したいけども、欧米諸国と文明レベルが違い過ぎることから開国する道を選んだのに対して、長州藩や朝廷は鎖国を維持したかったのです。

最終的には学校の授業で習った通り明治政府が誕生して開国する道を選ぶ訳ですが、ならば最初から皆で協力して幕府の言う通り開国する道を選べば良かったのにと思うのです。。。鎖国を始めたのは江戸幕府なので、幕府が鎖国維持を推進していたように錯覚しがちですが実際には幕府は開国派でした。

もちろん現在の日本があるのは明治維新のおかげであり、昔のことを批判しても今が変わる訳ではありませんが、もし幕府と薩長が協力して新しい時代を作っていたら現在の日本はどんな姿だったのか興味が湧いてきます。

蛤御門の変へのアクセス方法

京都駅から蛤御門へは市営地下鉄で今出川か丸太町駅で降りた後、徒歩10分ほどで到着します。
京都御所を見学する場合は今出川駅からのほうが京都御所通年参観受付が近いので、今出川駅で降りることをおススメします。
京都御所を参観した後に、蛤御門もついでに訪れてみてはいかがでしょうか?

近くには和気清麻呂を祀り、足腰の健康にご利益があると言われる護王神社や、足利義満が建てたことで知られる相国寺も一緒に巡ることをおススメ。また生麩で有名な麩嘉が近くにありますので、生麩まんじゅうを是非一度食べて頂くこともおススメさせて頂きます。