京都の歴史修学旅行レポート

本願寺の歴史について修学旅行レポートを提出します。

東本願寺御影堂前

東本願寺御影堂
▲東本願寺御影堂

本願寺の歴史を修学旅行レポートにて

こんにちは。
今回は本願寺の歴史について記事にしました。

本願寺(ほんがんじ)は鎌倉時代に活躍した親鸞(しんらん)が設立した浄土真宗(じょうどしんしゅう)のお寺です。
学校の歴史の教科書にも出てきますので、日本人なら一度は耳にしたことのあるお寺かと思いますが覚えていますでしょうか?(^^;)
平安時代には最澄の天台宗と空海の真言宗が生まれ、鎌倉時代になると鎌倉新仏教と呼ばれる新しい仏教の宗派が生まれて、そのうちの一つに親鸞が設立した浄土真宗がありました。

本願寺は京都に総本山を構え、京都駅前というアクセスの良さも有り多くの観光客が訪れています。
また本願寺は江戸時代に西本願寺と東本願寺に分裂しながらも、どちらも巨大な本堂を構える巨大寺院となっています。
親鸞という一人の人間が生んだ宗教の大きさを時代を超えて実感することができます。

今回は本願寺の歴史について修学旅行レポートを学校の担任の先生に提出つもりで記事にしてみました。

西本願寺御影堂
▲西本願寺御影堂

誰が本願寺を建てのか?

本願寺は鎌倉時代に浄土真宗を設立した親鸞の教えを伝え続けているお寺です。
浄土真宗の教えとは、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と心で唱えれば誰でも幸せになることができるというものです。

学校の教科書では鎌倉新仏教の一つとして浄土真宗の他に浄土宗が出てきましたが、浄土宗を作った法然は親鸞の師匠に当たり、浄土宗も南無阿弥陀仏と唱えることで誰も幸せになることができると人々に広めました。

浄土宗は南無阿弥陀仏と声に出して唱えること、生きている間に唱える回数が多いほど良いとする教えでしたが、浄土真宗は口で唱えることなく心で唱えるだけで良い、回数は関係無いと主張しました。

鎌倉新仏教が登場する前の仏教は貴族などのお金持ちを相手にしたものであり、会得するためには難しい本を何冊も理解するだけでなく、厳しい修行にも耐えなければいけないものでした。

しかし法然や親鸞が作った浄土宗や浄土真宗は難しいことは必要ない、南無阿弥陀仏と唱えるだけで仏様はあなたを必ず救ってくれるという単純な方法を主張したおかげで貴族から文字も読めないような庶民にまで支持されるようになりました。
西本願寺阿弥陀堂
▲西本願寺阿弥陀堂

親鸞自身で建てたお寺ではない。

親鸞が生きていた頃は、現在の清水寺近辺を拠点に活動をしていました。
しかし急速に支持を集めた浄土真宗は比叡山延暦寺などの既存の宗派から弾圧されるようになります。延暦寺にとって浄土真宗の信者が増えると自分達の信者が減るだけでなく、収入も減ることになるので新しく生まれた宗派は徹底的に潰そうとします。

親鸞が京都にいる間は何度も延暦寺の僧侶達に活動を邪魔され、「南無阿弥陀仏と唱えるだけで幸せになれる訳がない」と仏教を冒涜しているとして京都から追放の刑罰も受けました。
しかしこの京都追放の罰のおかげで親鸞は京都を離れて北陸や関東地方を拠点に浄土真宗の教えを広めることになり、浄土真宗が全国に広がる機会となりました。そして親鸞は本願寺をを建てることなく亡くなりました。

つまり親鸞が生きている間に本願寺という建物はできておらず、親鸞死後に親鸞の息子達や浄土真宗の信者達によって本願寺は建てられたのですが、最初は現在の清水寺近くに本願寺は建てられました。
東本願寺御影堂門
▲東本願寺御影堂門

本願寺は親鸞死後に建てられた。

ところが親鸞が亡くなっても延暦寺の弾圧は続き、信者達は滋賀県の堅田、福井県の吉崎、京都の山科、現在の大阪城が建っている土地、和歌山県と本願寺は移動し続けます。そして親鸞が亡くなってから約300年後に豊臣秀吉が京都を支配下に治めた時代になって、現在の西本願寺のある土地に本願寺を建てる許可を得ることになりました。

さらに江戸時代になると徳川家康によって本願寺は西と東に分裂することになり、現在のように京都駅前に西本願寺と東本願寺が並び建つ姿に落ち着きました。

本願寺を建てたのは親鸞の教えを受け継ぐ浄土真宗の信者達になりますが、現在の西本願寺があるのは豊臣秀吉、東本願寺があるのは徳川家康が現在の土地にお寺を建てることを許可したからということになります。

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東本願寺御影堂
▲東本願寺の御影堂はその大きさに圧倒される。

本拠地を転々としてきた本願寺

浄土真宗は設立して以来、常に敵が現れて戦ってきました。
設立当初は延暦寺から弾圧を受けたために京都から滋賀県の堅田へ拠点を移動したのですが、滋賀県堅田へも延暦寺は弾圧を加えてきたので今度は福井県の吉崎に移動をしました。

その後は京都に戻ることができて山科に山科本願寺を建てたのですが、今度は日蓮宗と対立することになり山科本願寺は破壊され、大阪へと拠点を移します。
現在の大阪城のある土地に本願寺を建てたのですが、今後は有名な戦国武将の織田信長と対立し敗北して和歌山県へと移動します。
そして豊臣秀吉の時代になると京都へ戻ることが許され、現在の西本願寺のある土地を譲り受けて本願寺を建てることができました。
東本願寺御影堂前
▲東本願寺御影堂前

本願寺が西と東に別れた理由

ところが織田信長との戦いの際に、本願寺の内部では信長と和睦をするグループと、最後まで戦い続けるグループの2つの考え方に別れていたのですが、最終的には信長と和睦することを選びます。この時に最後まで戦い続けることを主張したグループはずっと不満を抱えていました。

本願寺内部に対立が起きていることを知った徳川家康は、戦い続けることを選ぶグループに本願寺から独立することを提案して許可しました。
家康は本願寺が巨大な組織に成長し過ぎたことに危機感を持っており、本願寺を弱体化させる目的で本願寺を西本願寺と東本願寺に分裂させることに成功しました。

そのおかげで現在も京都駅前には西本願寺と東本願寺が続いている訳です。どちらも巨大な寺院となっていますが、東本願寺のほうがより巨大で圧倒されます。それは東本願寺は西本願寺よりも立派に見せるためにより大きく造ったと言われています。
ちなみに西本願寺は世界遺産に登録されていますが、東本願寺は登録されていません。。。

西本願寺御影堂の立派な装飾
▲西本願寺御影堂の内部

寺内町と一向一揆

浄土真宗の信者達は団結力が強く、時には武士や権力者と戦うこともありました。
南無阿弥陀仏と念じれば誰もが苦しみから救われる。この親鸞の教えに共感した人達は浄土真宗のお寺を町の中心に建てて、その周りに市場や住居を建てて生活を送る寺内町と呼ばれる集落を築きます。

そして寺内町は次第に規模も大きくなり、町を護衛してくれる武士も雇って自分達の生活は自分達で守る、税金もその地域を支配する武士や貴族にも払わない等、自立した町を作り上げていきました。

すると寺内町は税金も低くければ争いも無い平和な町となり、浄土真宗の信者では無い人も寺内町に入るために浄土真宗に入門する人がどんどん増加していきました。
西本願寺阿弥陀堂内部
▲西本願寺阿弥陀堂内部

織田信長軍にも負けない

そんな寺内町に対して正面から税金の支払いを命令した武将が現れました。有名な戦国武将である織田信長は現在の大阪城のある土地で本願寺と寺内町を築いていた石山本願寺に対して服従を命じました。

しかし本願寺は信長に抵抗し、そこから約10年間も屈服せずに戦い続けます。最終的には信長の力を持ってしても本願寺を降伏させることができず、当時の天皇に和睦の仲介をお願いして戦争を終わらせました。

結果的には石山本願寺は大阪の地から離れることを命じられ、和歌山県の鷺森という場所へ移動しましたが、織田信長とも互角以上に戦うことができるほどの組織に成長していたのでした。
東本願寺境内から見える京都タワー
▲東本願寺境内から見える京都タワー

南無阿弥陀仏にはどんな力があるのか

親鸞という一人の人物が生み出した教えは現在も続いています。
南無阿弥陀仏と唱えるだけで本当に人は救われるのか謎ですが、約800年も続いているという事実には驚くしかありません。

私は宗教に所属している訳ではないのですが、親鸞の教えがどんなものなのかを知るだけでも人生に役立つ知識があると思い、興味が出てきました。より深く勉強しようと思います。

東西本願寺へのアクセス方法

京都駅から本願寺へはどちらも歩いて行くことができます。
近いのは東本願寺になりまして、JR中央改札口を出ると目の前に京都タワーが建っていますので、京都タワーの後ろに東本願寺があります。
(京都駅から東本願寺までは徒歩5分)

西本願寺はJR中央改札口から西へ進みますと京都リーガロイヤルホテルのある交差点に着き辺ります。
すると交差点から北の方向を見ると西本願寺が見えますので後は立派な塀を目指して歩くだけ。
(京都駅から西本願寺までは徒歩12分)