京都の歴史修学旅行レポート

養源院と血天井の歴史を修学旅行レポートとして提出します。

養源院本堂

養源院法堂
▲養源院の本堂

養源院の歴史を修学旅行レポートとして。

こんにちは。
今回は血天井で有名な養源院(ようげんいん)の歴史について記事にしました。

養源院は豊臣秀吉とゆかりのあるお寺になりますが、建物の天井に人の血の跡がベッタリ付いている血天井があることで知られています。
養源院は必ず案内役のおばちゃんと一緒にお堂の中を見学することも特徴的でして、案内役のおばちゃんの説明を聞きながら修学旅行生達が天井を見上げると「キャー!」「えっ!?ヤバい!怖い!」と血天井を見て驚く姿に満足気な案内役のおばちゃんのドヤ顔も必見です。

そのため養源院に行くと血天井の印象が強すぎて、そもそも養源院は何のために建てられたのか?と血天井以外のことが何も印象に残っていない方も多いと思います。(^^;)

そこで今回は養源院の歴史について修学旅行レポートを学校の担任の先生に提出つもりで記事にしてみました。

淀殿肖像画
▲淀殿の肖像画 wikipediaよりお借りしました。

誰が養源院を建てたのか?

養源院は豊臣秀吉の奥さんだった淀殿(よど殿)によって建てられました。
淀殿は織田信長によって討たれてしまった自分の父親である浅井長政を弔うために養源院を建てました。

しかし淀殿の建設した養源院は火災により焼失してしまいまして、その後に淀殿の妹であるお江によって再建されました。
ちなみにお江は江戸幕府二代目将軍である徳川秀忠の奥さんになった方です。

血天井はお江さんによる再建の際に秀吉が建造した伏見城の一部を移築した時に誕生しました。

養源院参道
▲本堂へと続く道

山あり谷ありの淀殿の人生

淀殿は豊臣秀吉の2番目の妻である側室(そくしつ)として秀吉に嫁ぎ、秀吉の後継ぎである豊臣秀頼を出産した方です。

秀吉の1番目の奥さんである正室(せいしつ)のねねとの間には子供が生まれなかったために、秀吉の死後は正室のねねよりも側室の淀殿のほうが権力を持つようになり、ねねと淀殿の仲は悪くなる一方でした。

しかし最後は徳川家康による大阪冬の陣・夏の陣によって豊臣家が滅亡した際に、淀殿と豊臣秀頼は自ら命を絶ってこの世を去ることとなりました。
市肖像画
▲市の肖像画 wikipediaよりお借りしました。

淀殿のお母さんは織田信長の妹であるお市。

淀殿の母親は織田信長の妹であるお市であり、父親は滋賀県に勢力を持つ浅井長政という信長と敵対関係にある武将です。

つまり信長は浅井長政と同盟関係を結ぶために、敵対関係にある浅井長政に自分の妹であるお市を差し出しました。当時は同盟関係を結ぶとは血のつながりを結ぶことでしたので、信長だけが身内を敵に送った訳ではありません。皆やってました。(^^;)

お市さんは美人として有名でしたし、同盟を結ぶための結婚であることは理解しながらも浅井長政とは夫婦円満だったと言われています。浅井長政との間には3人の女の子が生まれ、3姉妹のうちの一人が淀殿であり、もう一人が徳川秀忠の奥さんとなったお江さんになります。
3姉妹は美人である母親のお市さんと同様に美人でした。
養源院入口
▲養源院の入口

最後は非業の死。

しかし浅井長政と信長は後に同盟関係を破棄し、再び敵対関係となり信長は長政を討ちました。そのためお市と3姉妹の子供達は未亡人となりましたが、信長の部下である柴田勝家と再婚しました。

ところがその後の本能寺の変によって、信長の後を誰が継ぐかの権力争いが勃発して豊臣秀吉と柴田勝家は対立関係となり秀吉によって柴田勝家は討たれてしまいます。その際に秀吉はお市に対して自分の側室になることを求めましたが、お市は再婚相手である勝家と共に自らの命を絶つことを選びました。

そして残った3姉妹のうちの淀殿は秀吉の側室となりました。
秀吉は若くて美人の淀殿をとても愛しまして、正室のねねのことはほったらかしで淀殿を愛して待望の後継ぎである秀頼も生まれました。

淀殿にとっては当時の権力者である秀吉の後継ぎを生んだことで大きな権力を握ることとなり、その頃に父親である浅井長政を祀るための養源院を建設したのです。

しかしその後に秀吉から徳川家康に政権が移ると豊臣家は衰退の一途をたどり、大阪冬の陣と夏の陣によって豊臣家と淀殿は滅びます。そして淀殿の妹であり、徳川秀忠の妻であるお江さんによって養源院は再建されました。

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ねね肖像画
▲ねねの肖像画 wikipediaよりお借りしました。

関ヶ原の合戦で家康が勝てたのはねねのおかげ!?

一方で正室のねねは徳川家康と良い関係を持っていたことから、清水寺近くに高台寺と呼ばれる出家して余生を送る場所を家康に建設してもらい、豊臣家滅亡後も生きていました。

一説には関ヶ原の合戦において、一部の秀吉側の武将が家康側に寝返った要因にはねねの影響力があったとも言われています。
ねねは秀吉がまだ偉くなる前から秀吉を支え、秀吉の部下達からも慕われていました。

また秀吉が偉くなってから秀吉に仕えるようになった石田三成と秀吉が若い頃から一緒に戦ってきた部下達の仲が悪かったことは有名です。
ねねは秀吉の後継ぎを生んだ淀殿と関係が良くなかったので、家康に色々と援助やお願いをしていました。そのためねねは秀吉が亡くなると、昔から一緒に戦ってきた部下達に対して最後は家康に味方しなさいと進言したと言われています。

養源院の歴史を知ると、養源院は血天井だけでなく複雑な歴史をもつお寺であることが見えてくると共に、正式の奥さんを愛することが大切であることをあらためて知れた気がしました。

養源院の血天井看板
▲血天井があることを示す看板

養源院では血天井の写真は撮影禁止です。

養源院の建物内で写真撮影は一切禁止されておりますので、血天井の写真を撮影したい方は別の血天井のあるお寺に行くことをおススメします。

また必ず案内役の方と他の観光客の方々と一緒に見学することが強制されますし、案内の順序通りに部屋を巡り、一つ前のお部屋の扉を閉めながら次の部屋に案内されるのでもう一度見ることができません。そのため自分のペースでゆっくり見学したい人は不満が残るかもしれません。
また観光客による写真撮影を非常に警戒している雰囲気が漂っています。(^^;)
源光庵悟りの窓
▲源光庵の悟りの窓 ここから天井を見上げると血の跡が。。。

京都には養源院以外にも血天井あります。

血天井を持つお寺は養源院以外にも京都にはあります。
有名なところだと丸い窓と四角い窓があることでも知られる源光庵にも血天井があります。他にも京都には正伝寺、宝泉院、興聖寺に血天井があります。

個人的には源光庵が一番おススメです。養源院は建物が暗いので血天井もよく見えません。他のお寺は日差しが入る部屋に血天井がありますので、手や足の跡がより明瞭に見えます。そんなにくっきり見たくない人のほうが多いかと思いますが。。。(^^;)

養源院へのアクセス方法

養源院は三十三間堂や京都国立博物館の隣に位置しますので、京都駅前のバスターミナルから三十三間堂行きのバスで三十三間堂前で降りるのが最短かと。

ちなみに私の場合は京都駅から歩いて向かうことが多いです。徒歩の場合は約20分ほどかかりますけども、歩くことが苦にならない方は徒歩でも行くことができますよ。
養源院本堂
▲養源院の本堂