京都の歴史修学旅行レポート

京都豊国神社の歴史|徳川家康が破壊して明治政府が再建した神社

豊国神社参道

豊国神社鳥居
▲鳥居

豊国神社の歴史を修学旅行レポートとして。

今回は京都にある豊国神社の歴史について記事にしました。

豊国神社(とよくに神社)は豊臣秀吉を祀る神社。
明治政府が再建して神社です。

豊国神社の歴史

①明治政府が再建
②前身は豊国廟
③徳川家康による破壊
④なぜ明治政府は再建したのか

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豊国神社の石碑
▲石碑

誰が豊国神社を建てのか?

現在の豊国神社は明治政府によって再建されました。
明治元年の1868年のこと。

豊国神社には豊臣秀吉が祀られています。
明治政府は敵だった江戸幕府への仕返しとして。
徳川家康の敵だった豊臣秀吉を祀る神社を建てたとも言われています。

秀吉が亡くなった頃の豊国神社周辺のエリアには、
秀吉を弔う豊国廟と呼ばれる建物群が広がっていました。

ところが徳川幕府が天下統一を果たした後には、
家康によって秀吉ゆかりの建物は破壊されていきましたので、
明治政府によって豊国神社はほぼ復活した形になりました。

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豊国廟の拝殿
▲豊国廟の拝殿

前身の豊国廟の歴史

豊国神社は明治政府によって建てられましたが。
その前身は豊国廟と呼ばれていました。

豊国廟は秀吉が亡くなった1598年の翌年、
1599年に秀吉の家臣達によって建てられました。

現在の豊国神社の東にある阿弥陀カ峰に秀吉の遺体が埋葬されまして。
現在の京都女子大学から京都国立博物館までを含む土地が豊国廟と呼ばれていました。

当時の天皇だった後陽成天皇は「豊国大明神」の神号を豊国廟に与えましたので。
朝廷から公式に認められた神社として存在していました。

豊国神社の唐門
▲唐門

徳川家康による破壊

ところが大阪冬の陣、夏の陣で豊臣家を滅亡した徳川家康は豊国廟を破壊しました。
豊国廟や秀吉とゆかりのあるお寺や神社のほとんどが破壊され。
家康と繋がりの深い僧侶達の手によって別の宗派のお寺に建替えられる等。
徹底的な豊臣家排除が実施されました。

豊臣秀吉肖像画
▲豊臣秀吉肖像画 wikipediaよりお借りしました。

なぜ家康は豊国廟を破壊したのか

家康にとって秀吉は敵。
安定した徳川幕府を維持するために反乱分子は消す必要がありました。

豊国廟は多くの人から人気のある場所となっており。
秀吉が亡くなった8月18日には毎年「豊国祭」が行われ、
多くの人が集って盛大なお祭り騒ぎが行われていました。

その様子は「豊国祭図屏風」と呼ばれる美術品にも描かれています。
秀吉の栄華を象徴するような豊国廟を破壊することで秀吉時代の終わりを見せられます。

豊国神社の鳥居
▲豊国神社の鳥居

明治政府が豊国神社を再建した理由

明治政府はなぜ豊国神社を再建したのでしょうか?

明治政府は徳川家康が破壊した豊国廟を復活させます。
江戸幕府から虐げられきた人達が集まる明治政府の仕返し的な側面もありますが。
近代国家への道を歩む明治政府は秀吉を英雄化する必要がありました。

明治時代に秀吉が特に評価された功績は朝鮮半島に進出した文禄・慶長の役でした。

当時の世界情勢は欧米諸国によってアフリカやアジア諸国は植民地化されており、日本もいずれ植民地にされてしまう危機感を明治政府は持ち、富国強兵政策を唱えて武士ではなく一般市民も徴兵制度によって軍隊に入隊することが義務付けられたことを学校の授業でも習いました。

 豊国神社唐門の鯉
▲唐門に描かれる鯉 出世のご利益があると言われている。

近代国家へ向かうための教育

江戸時代にはしっかりとした身分制度が存在していたのに、明治政府が誕生した途端に武士でもない普通の庶民も軍隊に入り、戦争が起きれば武器を手に取って命を懸けて戦わなければならないのです。もちろん当時の人達だって簡単に状況を納得できた訳ではありません。

そこで明治政府は徴兵制度という仕組みを作るだけでなく、人々の気持ちや精神面も変えることを考えました。それが明治政府によって創設された教育令や神社制度です。

現代のように日本人は全て学校に通うことで基礎的な知識を習得すると共に、歴史の授業では秀吉の功績を称え、秀吉を神様として祀る神社を建設することで植民地化されることを防ぐために他国に侵攻することを肯定する、欧米諸国のように日本も領土を拡大することを良いことであると思ってもらう必要がありました。
日本の歴史の中でも大々的に他国に侵攻したのは秀吉しかいませんでしたので、秀吉の功績を肯定的に評価することにしたのです。

豊国神社参道
▲豊国神社を正面から。

明治政府になってから日本は日清戦争や日露戦争等、日本以外の土地で戦争をして他国の領土を獲得していきました。当時の世界では欧米諸国はアフリカやアジアなどの国を攻めて植民地にしており、日本も植民地にされる可能性がありましたので、当時の社会では他国に侵攻することは正当化されました。
そのため明治政府は欧米諸国から植民地にされないためにも日本も他国の領土を奪うことで日本を守る意識を国民に浸透させる必要があった訳です。

現在の豊国神社は単純に秀吉が神様として祀られている神社として人気がありますが、明治時代に政府の思惑が込められていたことを知る人は少ないでしょう。。。

豊国神社へのアクセス方法

豊国神社は三十三間堂や京都国立博物館から徒歩5分の場所にありますので、京都駅前のバスターミナルから三十三間堂行きのバスで三十三間堂前で降りるのが最短かと。

ちなみに私の場合は京都駅から歩いて向かうことが多いです。
徒歩の場合は約20分ほどかかりますけども、歩くことが苦にならない方は徒歩でも行くことができますよ。