京都の歴史修学旅行レポート

寂光院の歴史を修学旅行レポートとして提出いたします。

寂光院山門

寂光院山門
▲寂光院の山門

寂光院の歴史を修学旅行レポートとして。

こんにちは。
今回は京都の大原にあります寂光院の歴史について記事にしました。

大原(おおはら)と言えば、三千院門跡(さんぜんいんもんぜき)が美しい観光名所として有名です。最近では外国人観光客も見かけるようになりました。
そして同じく大原にある寂光院(じゃっこういん)は一人の女性の哀れな物語の舞台となったことで有名なお寺です。
人によっては学校の古文の授業で聞いたり、テレビ等でご存知かもしれませんね。

そんな歴史のある寂光院ですが、平成12年(2000年)に心無い人の放火によって重要文化財の本尊や本堂が損傷してしまいました。
しかし現在は焼失した本堂も再建されまして、元通り観光できるようになりました。

今回は寂光院の歴史について修学旅行レポートとして学校の担任の先生に提出するつもりで記事にしてみました。

寂光院山門
▲山門へと続く階段

誰が寂光院を建てたのか?

寂光院の歴史は古く、日本の都が京都へ遷る前からこの地にあります。
推古2年(594年)に厩戸皇子(聖徳太子)によって建てられたと伝わっています。

聖徳太子が生きていた頃は日本の首都は奈良県でしたが、彼はお寺を建てる木材を探すために各地を訪れており、大原にも訪れたようです。
そして聖徳太子は自身の父親である用明天皇の死を弔うためにこの地に寂光院を建てたのでした。

寂光院から見える大原
▲寂光院近くから見える大原の景色

寂光院が有名になった出来事、大原御幸とは。

日本の伝統芸能である能の中に寂光院が舞台となる「大原御幸」という演目があります。
平清盛と源頼朝と同時代に生きた後白河天皇は、平清盛の一族である平氏が源氏に敗れた後にある女性に会うために都心から離れたここ寂光院を訪れました。

その女性の名は建礼門院(けんれいもんいん)という尼さんでした。
彼女は出家する前は平徳子という名前であり、平清盛の娘であり、高倉天皇の妻でもあり、安徳天皇の母親でもあった大変位の高い女性でした。
建礼門院肖像画
▲建礼門院の肖像画 wikipediaよりお借りしました。

下剋上の象徴。建礼門院

学校の歴史の授業で習った通り、平安時代は貴族が主役の時代でした。
源氏物語で描かれるような優雅な暮らしをする貴族達の影で、武士達は貴族のボディーガード、召使いのような地位にありました。

しかし次第に武力の重要性が増し、貴族達も今までのように武士達をこき使うことができなくなり、武士の存在を無視できなくなりました。
むしろ貴族達はより強い武士を自分の味方につけて、力づくで出世争いをする貴族に対抗します。
そして当時の天皇だった後白河天皇は最も武力を持っていた平清盛を側近にしたことで武士の時代が到来します。

貴族達が独占していた高い地位には平氏一族が就任し、ついには天皇の妻である皇后も平氏一族から輩出されました。
そしてその女性こそが平清盛の娘である建礼門院こと平徳子です。

さらに建礼門院は夫である高倉天皇との間に生まれた安徳天皇の母親となり、平氏は藤原氏がやったように天皇家と親戚にまで登り詰めたのです。まさに武士による下剋上でした。

また建礼門院は大変美しいことで知られており、当時の女性では最も位の高い天皇の妻である皇后として最も豊かで優雅な生活を送りました。

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寂光院本堂
▲寂光院本堂

栄華から地獄へと転落

しかし不運にもそのような生活は長くは続きませんでした。
鎌倉幕府を設立した源頼朝によって平氏一族は滅亡することになります。
源頼朝の弟である源義経の活躍で有名な山口県の沖合で行われた壇ノ浦の戦いで平氏一族は滅亡しました。

最後は当時の天皇である安徳天皇や位の高い女性達、死を覚悟した武士達が自ら海へ飛び込み命を絶ちました。
建礼門院も他の平氏と同じ様に海に飛び込みましたが、残念ながら敵である源氏によって救助されてしまいました。

もちろん建礼門院以外にも生き残った平氏はいましたが、当時の戦争では負けた側は多くの人の前で処刑されることが常識でしたので、多くの平氏が処刑されました。
建礼門院は安徳天皇の母親であり女性であったことから命拾いすることになりました。
しかし親しい人はほとんど亡くなり、建礼門院だけが平氏として一人生き残りました。
建礼門院御庵室遺跡跡
▲建礼門院の御庵室遺跡

一人で孤独に残りの人生を。

そんな彼女は残りの人生を一族の供養のために生きることを決心して出家し、人里離れた寂光院で一人静かに暮らすことにしたのです。
何不自由なく生活していた皇后時代とは違い、一人静かにお経を読み、写経などの仏教修行をしている建礼門院の元に、一人の男性が訪ねてきました。

平清盛と源頼朝と渡り合った後白河天皇は、建礼門院が一人寂しく寂光院で生活することを聞き、源氏の目を盗んで訪れてきたのです。
後白河天皇にとって建礼門院は息子である高倉天皇の妻であり、孫である安徳天皇の母親であり、親戚にあたる人です。

当時は鎌倉幕府が世の中を支配し始めた時代ですので、源氏の敵である平氏一族の生き残りである建礼門院の元を天皇が訪ねることはご法度でした。
建礼門院御庵室遺跡石碑
▲御庵室遺跡石碑

変わり果てた姿に。

突然の後白河天皇の訪問に驚いた建礼門院は、懐かしい後白河天皇の顔を見るなり涙ながらに自分の境遇を語ったと言われています。

後白河天皇も天皇と一緒に訪れた貴族達もあまりに貧乏な生活を送る建礼門院の変わり果てた姿を見て涙を流しました。
この後白河天皇と建礼門院が涙ながらに出会った場面は「大原御幸」という能の演目にもなっており、栄華を極めた一人の女性が孤独に哀れな生活を送ることになってしまった悲劇の一場面として後世に語り継がれたのでした。
寂光院山門と本堂
▲寂光院山門と本堂

後白河天皇の本当の狙い

後白河天皇はなぜ建礼門院を訪ねたのか?
その理由は美しいことで有名だった建礼門院と一晩関係を持つためだったと言われています。

現代の感覚では不謹慎な話ですが、後白河天皇は無類の女好きで有名でした。何人もの女性と関係を持ち、何人もの子供を持ちました。
現代では理解し難い話ですが、当時は位の高い人は複数の妻を持つことは当たり前であり、優秀な子孫を残すためにむしろ無理やりにでも推奨されていました。

後白河天皇としては、綺麗だった建礼門院が一人孤独に人里離れた場所で生活していることを知り、一体どんな姿となっているのだろうか?きっとあの頃のままの美しさで慎ましく暮らしているのだろうと、あわよくばを期待していました。

しかし実際に寂光院を訪れてみると、荒れ果てた建物と昔とは違う姿の建礼門院を見て、そんな気持ちも吹っ飛んでしまったのです。
ただただ涙が溢れるばかり。。。

寂光院へのアクセス方法

京都大原には電車の最寄り駅がありません。
京都駅から寂光院へはバスか車で行くしかありません。
京都駅から大原行きのバスで大原駅で降りましょう。
(京都駅から大原駅まで乗車時間約1時間。乗車賃:550 円 大原駅から寂光院まで徒歩で約15分ほど)