京都の歴史修学旅行レポート

京都智積院の歴史|前身は秀吉の息子鶴松を弔う祥雲寺

智積院総門

智積院の庭園
▲庭園

智積院の歴史を修学旅行レポートとして

今回は智積院の歴史について。

智積院(ちしゃくいん)は長谷川等伯の障壁画「桜楓図」で有名。
元々は豊臣秀吉が息子の鶴松を弔うために建てた祥雲寺でした。

智積院の歴史

①前身は祥雲寺
②豊臣家滅亡後に解体
③秀吉の敵が新築
④家康の秀吉抹殺

智積院金堂
▲金堂

智積院が建つ前は豊臣秀吉の祥雲寺だった。

智積院は徳川家康から土地を与えられた玄有(げんゆう)という僧侶によって建立。
でも智積院が建つ前のこの土地には豊臣秀吉によって祥雲寺(しょううんじ)というお寺が建っていました。

祥雲寺は秀吉の息子だった鶴松(つるまつ)の死を弔う目的で建てられたお寺でした。
鶴松は秀吉の後継ぎとなる男子でしたが。
不幸にも2歳という幼さでこの世を去ってしまいます。

秀吉は鶴松の死を弔うために豪華で巨大なお寺をこの地に建てたと言われています。
1992年には智積院の境内の発掘調査が行われ。
祥雲寺の大きな客殿の跡が発見されました。

発掘調査では約1200坪の広さだったことが予想され。
日本最大の客殿だったことが判明しました。

智積院の金堂
▲金堂

徳川家康による秀吉の記憶を消去する取り組み

大阪の陣によって豊臣家を滅亡させた徳川家康は、秀吉が建てた建物などを破壊したことで知られています。祥雲寺もその内のひとつで、家康によって建物は一度取り壊されました。

秀吉は豪華な生活をしていたことで知られている通り、秀吉が色々とお金を使ってくれるおかげで京都や大阪の人々は経済的に豊かで平和だったことから、秀吉に対して好意的な人が多くいました。
しかし豊臣家を滅ぼした家康にとっては、豊臣家を支持する人達が将来に自分の地位を脅かすことを危惧していました。そのため秀吉が建設した建物などを破壊して人々の記憶から秀吉の存在を消去することに努めました。
智積院の金堂
▲金堂

秀吉と対立した根来寺

家康は祥雲寺を取り壊すことを決め、和歌山県の根来寺にいる玄有という僧侶に祥雲寺のある土地を与え、玄有のためのお寺を造ることを許可しました。
根来寺は秀吉によって焼き打ちにされたお寺であり、秀吉とは敵対関係にありました。
家康はただ秀吉の建てた建物を破壊するだけでなく、秀吉に反発していた人達を自分の味方にすることをしたのです。

智積院のあるエリアは秀吉の遺跡が集まっており、家康によって破壊されたお寺や神社が再建されて現在も残っています。
学校の教科書だけだと家康は温厚なイメージがありますが、したたかな人物だったことが伺えます。
智積院から見える京都タワー
▲智積院から見える京都タワー

長谷川等伯の障壁画「桜楓図」

智積院の最大の見所は長谷川等伯作の障壁画です。
智積院の前身である洋雲院の客殿に描かれた障壁画であり、豊臣秀吉の息子の死を弔う目的ための大変豪華な障壁画となっています。
彼の財力を象徴するようなダイナミックで豪華な絵画です。

智積院へのアクセス方法

京都駅からバスで三十三間堂行きのバスに乗って、三十三間堂前で降りると徒歩5分で到着です。
(京都駅から三十三間堂前駅まで。乗車時間10分。乗車賃230円。)