京都の歴史修学旅行レポート

石清水八幡宮の歴史を修学旅行レポートとして提出致します。

南総門から本殿を

石清水八幡宮本殿
▲石清水八幡宮本殿

石清水八幡宮の歴史を修学旅行レポートにて。

こんにちは。
今回は石清水八幡宮の歴史を記事にしました。

京都市から少し南にある八幡市に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)はあります。
石清水八幡宮の歴史は古く、日本の都が京都の平安京に遷った頃からこの地にあり、平安京の守り神として人々から祀られてきました。

現在の石清水八幡宮は京都府の中でも厄除けのご利益があることで知られており、厄年を迎える人は石清水八幡宮を参拝する人も多くいらっしゃいます。
一方で観光客はそこまで多くありません。
京都駅から石清水八幡宮に行くには乗り換えが必要で少し手間が掛かりますので、他県から京都へ旅行する人にとっては京都駅からさらに約40分も電車に乗ることに抵抗があります。

今回は石清水八幡宮の歴史を修学旅行レポートとして学校の担任の先生に提出つもりで記事にしてみました。

南総門
▲南総門

誰が石清水八幡宮を建てのか?

石清水八幡宮は平安時代の860年に朝廷によって建てられました。
その目的は京都の都、平安京の南西に位置することから平安京を見守るために建てられました。

大昔の日本では現代の風水のような形で、方角によって吉や凶を呼び寄せると考えられており、北東と南西を鬼門(きもん)と裏鬼門と位置付けてこの方角から不幸が訪れると信じていました。

そこで北東と南西には不幸がやって来るのを防ぐために守り神を置く習慣がありました。
平安京の北東を守る役目を担うのが比叡山延暦寺であり、南西を守る役目を与えられたのが石清水八幡宮という訳です。

南総門から本殿を
▲南総門から本殿

なぜ石清水八幡宮は建てられたのか?

石清水八幡宮は平安京の南西を守る役目を持って建てられましたが、ある神様のお告げがきっかけとなって誕生しました。

九州の大分県にある宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)で修業する僧侶だった行教の前に、宇佐八幡宮の神様が現れて、「私を平安京の近くにおきなさい。そうして私は都を守る」とお告げをしました。

そのことはすぐさま平安京の朝廷に伝わり、現在の場所に石清水八幡宮を勧請することが決まりました。
勧請(かんじょう)とは元となる神社と同じ系統の神社を作り、同じ神様を祀ることをいいます。
宇佐八幡宮を親とすれば、石清水八幡宮は子のような関係に当たります。

ちなみに鎌倉にある鶴岡八幡宮も宇佐八幡宮を勧請した神社となり、日本に最も多くある稲荷神社は京都にある伏見稲荷大社を勧請した神社になります。
石清水八幡宮本殿
▲本殿

本当は神様のお告げではなくて。。。

神様からお告げがあったなんて、現代人には信じられない話です。
現実的には九州地方に勢力を持つ人々が、都と手を結ぶため、仲良くするため、良い関係性を築くために神様からお告げあったと願いでたと言われています。

今でこそ日本の首都は東京ですが、それまでは京都や奈良などの関西圏が首都であり最も繁栄していました。
そしてさらに昔には九州地方や出雲大社のある島根県などが日本の先進地域でした。

中国や朝鮮半島から近いこともあり、先進知識や技術がすぐに輸入されてきたからです。
そのため九州地方に権力を持つ一族や人々が暮らしていましたが、次第に奈良や大阪が発展し、奈良県から現在の天皇家が誕生し、権力争いも起きました。

最終的には現在の天皇家が日本を統治することとなり、九州地方や出雲地方の人達は戦いに敗れて天皇家と協力関係を築きました。
宇佐八幡宮のお告げも両者の関係をより良いものにするための作り話かもしれません。

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国宝の本殿
▲国宝の本殿

武士の神様として。

石清水八幡宮は武士の神様として祀られてきました。
それは源氏の棟梁だった源義家が石清水八幡宮で元服の儀式を行ったことに起因しています。

源義家は鎌倉幕府を設立した源頼朝の祖先にあたる人で、源氏にとっては神様のようなお方です。その義家が石清水八幡宮で現代でいう成人式を行ったことから、源氏は八幡宮を一族の神様として祀るようになりました。

源氏と八幡宮にはそんな歴史があることから、源頼朝は鎌倉に鶴岡八幡宮を建てたのです。

石清水八幡宮一の鳥居
▲一の鳥居

徳川慶喜がお腹が痛いと猿芝居をした場所として。

幕末の頃には徳川慶喜が石清水八幡宮を訪れました。
当時はアメリカのペリーが来日して以来、日本では鎖国継続を訴える攘夷(じょうい)という考えが広まっていました。

そんな中で当時の天皇である孝明天皇と、徳川将軍である徳川家茂の2人が武士の神様である石清水八幡宮を参拝し、攘夷を祈願しようという儀式が行われる予定でした。
ところが徳川家茂が急病になってしまい、代わりに将軍後見職に就いていた徳川慶喜が出席しました。

幕府や慶喜は開国するしかないと考えていたので、攘夷を宣言する儀式なんて執り行えば、アメリカだけじゃなく諸外国から何を言われるかわかりません。すでに日本はアメリカと日米和親条約だって結んで開国しているのです。

そこで慶喜は石清水八幡宮の本殿の手前で、急にお腹が痛いとうずくまってしまったのです。
そのため儀式は中止となり、攘夷を志す人達から慶喜に対して批判が殺到したのでした。

石清水八幡宮から京都市内を展望
▲石清水八幡宮から京都市内を眺める。遠くに京都タワーも見えます。

蛤御門の変の長州藩の陣地として。

長州藩による天皇が暮らす京都御所に大砲をぶち込んだ事件である蛤御門の変。
石清水八幡宮は長州藩が京都へ進軍する陣地として利用されていました。

長州藩は幕末において最後には薩長同盟によって幕府を倒す側になりましたが、それまでは非常に過激な藩でした。
長州藩は蛤御門の変で京都の町を火の海にして、天皇を誘拐して自分達が政治の主導権を握ることを計画していました。

石清水八幡宮は蛤御門の変において長州藩の軍隊が京都市内へ突撃する直前の陣地として利用され、ここから京都市内へ進軍し、幕府軍や新撰組と戦うこととなりました。

石清水八幡宮へのアクセス方法

京都駅から石清水八幡宮へはJRから京阪電車に乗り換える必要があります。

京都駅からJR奈良線に乗り、1駅先にある東福寺駅で京阪電車に乗り換え後、大阪方面の電車に乗り八幡市駅で下車すると到着です。
(京都駅から八幡市駅まで。乗車時間約40分。乗車賃:450円)