京都の歴史修学旅行レポート

京都総見院の歴史|秀吉が建てた信長のお墓

総見院正門

信長のお墓総見院
▲信長のお墓

総見院の歴史を修学旅行レポートとして。

今回は京都の総見院の歴史について。

総見院(そうけんいん)は織田信長のお墓があるお寺。
豊臣秀吉が建てました。

総見院の歴史

①豊臣秀吉が建てた
②信長のお墓
③阿弥陀寺にも墓がある?

総見院本堂
▲本堂

豊臣秀吉が建てた

総見院は豊臣秀吉が建てました。
目的は織田信長を弔うためです。

有名な本能寺の変で信長は亡くなりましたが。
残念ながら遺体は建物と一緒に全焼して見つかりませんでした。

そこで信長の後継者である(後継者と思われたい)
秀吉は信長の1周忌に合わせて建設します。
当初は現在のこじんまりとした規模ではなく、
広大な敷地に豪華な建物が建ち並んでいたと言われています。

明治時代に起きた廃仏稀釈運動によって、
多くの建物や宝物が破壊されてしまい、現在の規模まで縮小してしまいました。

総見院信長一族のお墓
▲案内板
総見院信長一族のお墓
▲信長一族のお墓

信長のお墓

総見院には秀吉が建てた信長の墓があります。
信長本人だけでなく一族のお墓がズラリと並びます。

日本史上で最も有名な歴史人物の1人、織田信長。
そのお墓の前に立つと鳥肌が立ちます。

ところが京都には信長のお墓がもう1つあることを後日に知りましたけど。

総見院本堂
▲総見院本堂

総見院建設に潜む秀吉の思惑

織田信長が本能寺の変で討たれた1年後に信長の一周忌が総見院にて執り行われました。
現在の総見院の境内は広くなく、こじんまりとしたお寺ですが、創建当初は広大な敷地に豪華な建物や塔が立ち並んでいたと言われています。

それも明智光秀を討つことで信長の仇を討った豊臣秀吉が、信長の偉大さを世の中に示すために、自分を農民から武士に引き立ててくれた上司である信長に対して感謝の気持ちを示すために創建院は建てられました。

学校の授業でも習った通り、信長の跡を継いで日本統一を果たした豊臣秀吉を信長の後継者として違和感を抱く人は少ないでしょう。
しかし信長が本能寺の変で討たれたすぐ後の頃は、いったい誰が信長軍のトップを受け継ぐかは決まっていませんでした。
総見院信長一族のお墓
▲信長一族のお墓

秀吉の策略

秀吉がすぐに明智光秀を討ち取った功績がありましたが、信長には後継ぎとなる子供達がいましたし、秀吉以外にも有力な武将達がいました。
本能寺の変から約1か月後に愛知県にある清州城で行われた清州会議では、誰が織田家を継ぐのか?信長が所有していた土地を誰に配分するかを織田家と信長軍で話合われました。

その場では信長の孫にあたる三法師が織田家を継ぎ、三法師が大人になるまでは秀吉が面倒を見ることになりました。
しかし幼い三法師に何かできる訳ではなく、秀吉は自分に有利な施策を行うようになります。
そんな秀吉の動きに反発した元信長の武士達は秀吉に戦いを挑みましたが、結果的には秀吉が勝利を収め、秀吉が天下統一を果たしました。

そして総見院での壮大な信長一周忌は、世の中に対して自分が信長の後継者であることを示すための政治的イベントでもありました。

総見院鐘鐘楼
▲鐘楼

実は信長の遺体は本能寺から運びだされていた。

本能寺の変によって全焼した本能寺から、実は信長の遺体を運び出して火葬したとされるお寺が京都には存在します。
当時の本能寺から北東方向に徒歩で約1時間ほどの場所にある阿弥陀寺には、本能寺の変が起きた知らせを受けた阿弥陀寺の僧侶達が本能寺を訪れると、切腹した信長の遺体を運び出していた信長の部下達と会い、信長の遺体を火葬するのを手伝ったとする言い伝えがあります。

個人的には明智光秀軍に取り囲まれていた本能寺から、どうやって信長の遺体を運び出すことができたのか不思議ですが、阿弥陀寺も信長のお墓のひとつです。

いったい信長の魂はどこのお墓にいるのだろうか?それともどこにも存在しないのだろうか?
それとも魂の居場所なんてどうでもよくて、信長を思う気持ちがあればどこでも良いのだろうか?

総見院へのアクセス方法

総見院は大徳寺の境内にあります。
京都駅から地下鉄で北大路駅まで行き、北大路駅からバスで大徳寺前まで行くのが良いかと思います。