京都の歴史修学旅行レポート

京都清水寺の歴史|坂上田村麻呂が建てた観音信仰の聖地

清水寺の紅葉と清水の舞台

清水寺本堂夜
▲夕方

清水寺の歴史|修学旅行レポート提出します

今回は清水寺の歴史について。

清水寺は京都を代表する観光名所。
京都には数多くの観光スポットがありますが。
結局のところ清水寺が一番!

今回は清水寺の歴史を修学旅行レポート気分でご紹介。

清水寺の歴史

①平安時代778年に
②坂上田村麻呂が建てた。
③十一面観音信仰の霊場に
④清水の舞台から飛び落ち流行
⑤阿弖流為と坂上田村麻呂
⑥足利尊氏も参拝

清水寺仁王門

▲仁王門

征夷大将軍の坂上田村麻呂が建てた

清水寺は奈良時代から平安時代に活躍した武人の坂上田村麻呂によって建てられました。

坂上田村麻呂と言えば。
征夷大将軍に任命されて現在の東北地方を支配していた蝦夷と呼ばれる民族と戦い。
朝廷による東北地方支配を発展させた人物です。

現在の清水寺のある土地に賢心という僧侶が建てた小さなお寺があり。
たまたま狩りをしに来た坂上田村麻呂と賢心が出会い。
賢心は田村麻呂にこのような神聖な場所で動物の命を奪う狩りをしてはいけないと諭し。

賢心の仏教の教えや賢心の知識の深さ、人格の高さに敬意を抱いた田村麻呂は、
現在の清水寺に繋がる大改築を行ったことが清水寺の始まり。

清水寺本堂
▲冬

伝説的に強かった坂上田村麻呂

現代では坂上田村麻呂って誰だっけ?という印象だと思いますが。
当時は伝説的に強い武人として人々から尊敬されていました。

清水寺のほぼ裏側に坂上田村麻呂のお墓があるのですが。
当時は京都の入口に当たる場所。
坂上田村麻呂の遺体は鎧を装備したまま、立った状態で土葬されています。

これはレベチに強かった坂上田村麻呂に京都を守って貰おうという人々の願いが込められています。

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清水寺三重塔から仁王門
▲清水寺から京都市内を眺望

病気治癒や旅の安全を祈る

坂上田村麻呂が亡くなった後も京都の人々から武人として崇められます。
病気を治したいと願う人、京都から旅立つ際に旅の安全を願う等。
田村麻呂の強さにあやかって病気を倒して欲しい。
旅の途中で強盗に出会うことを避けたい。

当時の貴族から庶民の方々まで多くの人に頼りにされ。
京都の守り神のような存在として信仰されてきました。

清水寺から眺める京都市内
▲清水寺から見える京都タワー

観音信仰の霊場として

清水寺の本尊は十一面観音菩薩。
本尊(ほんぞん)とは各お寺において、最も大切にされている仏像などのこと。

仏教の世界では色んな種類の仏像がありますが。
観音菩薩は女性的な表情をしていることが特徴的であり、
大昔より人々の願いを叶えてくれる母のような存在として信仰されてきました。

関西では西国三十三所巡礼と呼ばれる、各地の観音菩薩をお参りする巡礼が平安時代から続く文化があり、清水寺も33カ所の1つに選定されています。

坂上田村麻呂の強さを土台に、観音菩薩の母性的な優しさを併せ持ち、
多くの人々から信仰され、何度も火災に遭いながら復興してきた歴史があります。

清水寺の千日詣り奥の院
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京都清水寺の清水の舞台から京都タワー
▲舞台からの景色

清水の舞台から飛び降りる流行

現在でも「清水の舞台から飛び降りる気持ちで」と
決死の覚悟で物事に取り組む際に使うことがあります。

江戸時代には実際に飛び降りる人が結構いたそうで。
清水寺に残る日記に江戸時代に約200人ほどが飛び降りたと記録されているそうです。

意外と8割の方は生還したそうで。
ゲン担ぎのような感覚?
現在で言うとSNSでバズる目的で過激なことを行うノリ?

清水の舞台から飛び降りることが流行していた時期もありました。

清水寺阿弖流為石碑
▲阿弖流為の石碑

阿弖流為(あてるい)と坂上田村麻呂。

阿弖流為と刻まれた石碑が静かに音羽の滝の近くに建っています。
阿弖流為とは坂上田村麻呂が征夷大将軍として東北地方を制圧した際に戦った蝦夷の大将です。

当時の東北地方は朝廷の支配が及んでいない地域であり、朝廷としては長年支配下に治めたい場所でした。
朝廷の支配が及んでいないとは、朝廷に対して税金を納める必要も無く、朝廷とは独立した政治を行っていたということです。

音羽の滝
▲音羽の滝

貴族達が優雅な生活を送るための侵略

平安時代と言えば。
源氏物語や藤原道長などの貴族達が豪華で優雅な生活を送っていましたが。
その生活を維持するお金はどこから来たのか?

彼らの生活を支えるお金は地方から徴収した税金です。
彼らにとって朝廷の支配下を広げることは自分達の生活を豊かにすることと直結します。

そのため朝廷にとっては東北地方を支配下に置くことで、東北地方で暮らす人達から新たな税金を徴収することができます。
しかし東北地方には蝦夷と呼ばれる民族が支配しており、朝廷からの支配に対して古代より反抗してきました。
朝廷としては強引にでも蝦夷達を屈服させて、自分達がさらなる優雅な生活を営むことを望みました。

そこで登場したのが坂上田村麻呂。
坂上田村麻呂は当時では有名な武人であり、体格も大きく負け知らずの大変強いことで知られていました。
朝廷は坂上田村麻呂を征夷大将軍(征夷とは東の敵を征伐するという意味があります)に指名して東北地方の蝦夷達を滅ぼすために戦に出ます。

清水寺の紅葉と清水の舞台
▲紅葉シーズンの清水寺本堂

坂上田村麻呂の葛藤

しかし坂上田村麻呂は阿弖流為と戦う間に、朝廷のやり方に疑問を持っていました。
自分達が豊かな生活を送りたいがために、蝦夷には多く血が流れていく。
阿弖流為たちが勇敢に立ち向かってくれば来るほど、坂上田村麻呂は阿弖流為に敬意と戦う目的に疑問を持つようになりました。

だからこそ阿弖流為が坂上田村麻呂に対して降参してきた際に処刑せずに、朝廷と会話するために阿弖流為を京都まで連れていきました。
しかし朝廷は協調政策を否定し、蝦夷は滅ぼすべきという選択をして阿弖流為は無残にも処刑されてしまいました。

坂上田村麻呂にとっては心が痛む出来事となり、賢心によって殺生の罪を学んだことを活かすことはできませんでした。

清水寺の千日詣り本堂
▲本堂

足利尊氏も参拝

室町幕府の初代将軍である足利尊氏も清水寺に参拝した記録があります。
室町幕府創設の直前の頃に清水寺に参拝し、
自分は出家するから弟の直義に全てを任せると書いた文が残っています。

清水寺へのアクセス方法

京都駅から清水寺へ行くにはバスに乗るのが迷うことのない方法です。
(下車駅:五条坂駅 乗車時間:約15分 乗車賃:230円)
京都駅前にはバスターミナルがあり、行き先毎にバス停が並んでいますので「清水寺行き」と書かれたバス停からバスに乗りましょう。
降りる際にもバスの運転手さんから「清水寺へ向かう方はここで降りて下さい」と車内アナウンスもありますので乗り過ごすことも無いかと思います。

バス停から清水寺まではひたすら登り坂になっていますので、約15分くらいは軽く山登りをする心構えで靴も選んだほうが良いと思います。