▲円通寺から見える比叡山
京都円通寺の旅行記
こんにちは。
今回は比叡山を借景とする庭園で知られる円通寺の旅行体験記です。
借景(しゃっけい)とは、遠くの山などの景色を庭園の一部として取り込み、庭園だけでなく庭園の背景となる外の景色も一体化させる手法のこと。
文章で説明するよりも、円通寺(えんつう寺)の庭園を実際に目で見れば借景庭園がどんなものか理解できます。
円通寺の庭園は庭園から見える比叡山があることを前提にして庭園の構成が考えられており、比叡山がより美しく見えるように木や石が配置されているのです。
▲この角度から比叡山は見えない。いい位置には他の観光客がいたせいで。
借景庭園と静寂と自分
個人的に私が思う円通寺の良いところは、静かなことです。
京都駅からのアクセスが悪いことから観光客も少なめで、タイミングによっては円通寺の景色を一人占めすることもできます。
円通寺は都心部からも離れており、とても静かな地域です。
静かに庭園を眺めている間も車の通る音も聞こえなくて、鳥の鳴き声や庭園の苔の上を歩く鳥の足音、風に揺れる草木の音が心地良かったです。
また円通寺の近くは庭園の景観を守るために京都市の条例で高いビルやマンションを建てることが禁止されており、比叡山を借景にした景色は守られています。
円通寺は江戸時代に建てられて以来、ずっと同じ景色を私達に与えています。
▲建物内から庭園の写真撮影は許可されています。
誰が円通寺を建てのか?
円通寺は江戸時代の天皇である後水尾天皇によって建てられました。
後水尾天皇(ごみずのお天皇)と言えば、高校の日本史の教科書で出てくる紫衣事件(しえ事件)を引き起こした天皇でした。
徳川家康は江戸幕府の安定のために、京都の朝廷を統制する施策を行いました。
そのおかげで今までは天皇や朝廷が決めていた物事が、幕府の許可を得なければ実施できないようになり、幕府に対する不満が溜まります。
紫衣事件は天皇による幕府に対する抵抗を示す出来事でした。
▲比叡山と借景。
後水尾天皇の怒りと芸術センス
後水尾天皇は幕府に対して怒りを示し続ける一方で、芸術的センスに優れた人物でした。
円通寺だけでなく修学院離宮など美しい庭園を建造しました。
後水尾天皇が円通寺を建設する際には、比叡山が美しく見える場所を自ら探して現在の場所に建てることを決めた言われています。
つまり円通寺は偶然に比叡山が借景となっているのではなく、後水尾天皇の明確な構想の元に造られた庭園です。
▲山門
後水尾天皇の心の内
今でこそ円通寺はお寺ですが、元々は後水尾天皇の別荘として建てられ、幡枝離宮と呼ばれていました。
後水尾天皇は生きている間はずっと幕府に対して怒りを持っていたと言われており、その怒りを芸術分野にぶつけたのでしょうか?それとも自分の怒りを落ち着かせるための場所を自ら造ったのか。
静かに庭園を眺めていると、大きな怒りの感情を持った人が創ったとは想像できません。
円通寺の庭園には怒りを象徴するものがあるのだろうか。
円通寺へのアクセス方法
京都駅からダイレクトで円通寺に行く手段は車のみです。
私も円通寺に行った時はレンタカーを利用しました。
もし車以外で行く場合は、京都駅から地下鉄で国際会館駅か北大路駅まで行き、駅からバスで円通寺前まで行きます。京都駅から約1時間ほどは必要です。