京都の歴史修学旅行レポート

二条城の歴史を修学旅行レポートとして提出致します。

二条城二の丸御殿

二条城二の丸御殿
▲二条城二の丸御殿車寄

二条城の歴史を修学旅行レポートとして。

こんにちは。
今回は二条城の歴史について記事にしました。

二条城は江戸幕府の初代将軍である徳川家康が京都に建てたお城です。
京都の都心に位置することもあり、毎日多くの観光客で賑わう観光名所。
最近では日本人よりも外国人観光客のほうが圧倒的に多く訪れる場所となっています。

海外の人にとって日本の歴史と言えば、侍(サムライ)のイメージが強いと思いますので、侍とゆかりのある日本のお城は外国人観光客の皆様が日本に対して持つイメージとピッタリ合致するのだと思います。

二条城では外国人観光客向けに音声ガイダンスが提供されており、多くの人が展示物を見ながら興味深くガイダンスを聞いておられます。
わざわざ海外から日本文化について興味を持って頂けていると思うと、日本人として悪い気はしないのですが、実は日本人である私自身が二条城についてあまり歴史を知りません。。。

そこで今回は二条城の歴史を修学旅行レポートとして学校の担任の先生に提出するつもりで記事にしてみました。

東大手門
▲東大手門

誰が二条城を建てのか?

二条城(にじょうじょう)は初代江戸幕府将軍である徳川家康によって建てられました。
徳川家康が二条城を建てた目的は京都を支配するためです。

江戸幕府は現在の東京を本拠地として設立され、現在の日本の首都が東京となった礎を築きました。今でこそ日本の首都は東京ですが、794年に桓武天皇によって京都の平安京が設立されてから明治政府が設立されるまでの約千年もの間、日本の首都は京都でした。
二条城内堀
▲内堀

あえて京都から距離を置いた家康

徳川家康が江戸幕府を設立する少し前に日本を支配した織田信長や豊臣秀吉が京都や関西圏を支配して政治を動かしましたが、徳川家康は京都から遠く離れた東京から日本を支配する方法を選びました。

その理由は織田信長や豊臣秀吉は完全には京都を支配することができなかったからです。
京都に住む天皇家や貴族、商人や町人達は、表向きは言うことを聞いていても、裏では隙あらば抵抗する動きを見せました。

一説には織田信長が部下である明智光秀に討たれた本能寺の変において、明智光秀に織田信長を討てと命じた黒幕が京都の貴族達や天皇家に近い人だったとする説があるように、貴族達が裏でどんな謀略を巡らせているかわからない。
そこで家康は敢えて京都から距離を置くことにしたとも言われています。
そして京都の貴族達が徳川家康に反旗を翻すことを監視するために建設されたのが二条城です。

二条城は徳川家康が京都を訪れた際には家康の滞在拠点となり、京都の治安を守る京都所司代という組織も設置されました。
二条城から東へ約20分ほど歩くと、天皇や貴族達が暮らしていた京都御所があり、いざという時には即座に京都御所を支配できる距離に二条城はあります。

高台寺から見える大阪城の煙
▲高台寺からの景色

豊臣家滅亡の拠点として

二条城は有名な歴史上の出来事とゆかりのある場所です。
徳川家康によって豊臣家を滅亡させたこととなった大阪冬の陣、夏の陣の際には徳川家の拠点として二条城は機能しました。
大阪の陣の際に家康は二条城から家康軍に向けて指示を出しました。

二条城から東には観光名所で有名な清水寺があり、清水寺近くにある高台寺というお寺から大阪の陣の際に大阪城から煙が上がるのが見えたそうです。
高台寺には秀吉の奥さんであるねね殿が秀吉の死後に政治から離れて暮らしていたお寺で、自身の一族が滅亡することを京都から見届けました。。。

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大政奉還の場面
▲大政奉還の行われた黒書院

大政奉還が発表された場所として。

江戸幕府による支配から、薩長同盟を中心に明治政府による日本統治への転換点となった大政奉還。
二条城には徳川慶喜によって江戸幕府支配下の全国各地を統治する武士達が集められて、大政奉還が発表されました。
江戸幕府設立から約200年続く徳川家による支配が終わり、明治という新しい時代が始まることとなりました。

二条城には大政奉還が発表された部屋が残っており、その部屋を見学することができます。
二条城内は大変立派な造りとなっており、当時の徳川家の権力と財力の大きさを十分に知ることができます。もし二条城を観光した後に京都御所も観光するのであれば、天皇家にも勝るとも劣らない徳川家の大きさがより理解できるかと思います。

二条城唐門
▲唐門

戊申戦争時の作戦本部

江戸幕府と新政府軍による戊申戦争において、二条城は新政府軍による東京侵攻の作戦本部として機能しました。
戊申戦争の始まりと戦いとなった鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は京都を制圧し、大阪湾から東京へ逃走した徳川軍の後に二条城を作戦本部にしました。

新政府軍が東京へ進軍すると、江戸幕府軍の代表として勝海舟が新政府軍の西郷隆盛を訪れまして、東京で戦争すると被害が甚大のため、徳川慶喜は戦わずして降参する意向であることを伝えました。
新政府軍は徳川慶喜の切腹もしくは処刑を目指していたので、勝海舟は新政府軍の最前線にいる西郷隆盛と交渉しました。
二の丸庭園
▲二の丸庭園

徳川慶喜の生死を決めた場所

それを受けた西郷隆盛は一度京都へ戻り、作戦本部の二条城に待機していた岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らに慶喜の助命を相談しました。
岩倉具視、大久保利通は慶喜の切腹を主張しましたが、最終的には慶喜の意向を汲み取りました。

そして東京で新政府軍と幕府軍の戦闘は回避され、江戸城は新政府軍に明け渡されたのでした。

二条城へのアクセス方法

二条城へは京都駅からバスで行くのが迷わない方法です。
京都駅前はバスターミナルとなっており、ほとんどの観光名所行きのバスが運行していますので、行きたい場所の名前の書かれたバス停に並べば問題無しだと思います。

バスターミナルには観光案内所もありますし、行きたい場所に行くにはどのバスに乗れば良いか案内して頂けるスタッフもバスターミナルには配置されています。
(バスで京都駅から二条城まで。乗車時間:10分。乗車賃:230円)