京都の歴史修学旅行レポート

天智天皇山科陵の歴史を修学旅行レポートとして提出いたします。

天智天皇山科陵

天智天皇陵
▲天智天皇のお墓

天智天皇陵の歴史を修学旅行レポートとして

こんにちは。
今回は天智天皇のお墓である天智天皇陵(山科陵)に行ってきました。

天智天皇(てんじ天皇)と言えば、日本人なら誰もがその名を知っている天皇です。
天智天皇は天皇になる前には中大兄皇子(なかのおおえの皇子)と呼ばれており、学校の授業でも習いましたね。

乙巳の変(いっしの変)と呼ばれる、当時の権力者だった蘇我入鹿(そがのいるか)を斬殺する大事件を引き起こした中心人物です。
そして乙巳の変を皮切りに当時の国家体制を大きく変革し、天皇を頂点とした新しい国の仕組みが構築された大化の改新が行われたのでした。

歴史上の天皇の名前を思い出すと、天智天皇が一番最初に思い浮かぶ人は私だけではないはずです。笑
そんな歴史上の人物としても有名な天智天皇のお墓が京都市の山科区にあります。
今回は天智天皇陵の歴史について修学旅行レポートとして学校の担任の先生に提出するつもりで記事にしてみました。

天智天皇陵の入口
▲天智天皇陵の入口

なぜ京都の山科にお墓があるのか?

天智天皇こと中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が起こした乙巳の変は645年の出来事であり、舞台は現在の奈良県でした。
それから日本の都が京都の平安京に遷されたのは、乙巳の変から100年以上も後の794年のこと。
どうして天智天皇のお墓がここにあるのでしょうか?

それは天智天皇が亡くなる直前の日本の都は滋賀県の大津京にあり、天智天皇のお墓の後ろにある山の向こう側に天智天皇は住んでいた時代があったからです。
おそらく通常なら大津京跡地にお墓が作られたはずでしたが、ある出来事によって現在の場所に天智天皇のお墓が作られました。

天智天皇のお墓へと続く道
▲入口から天智天皇のお墓まで続く道

行方不明になった天智天皇

その出来事とは天智天皇が大津京から京都の山科へ狩りに出掛けたまま行方不明になってしまったのです。
当時の貴族達は現在の趣味のように狩りを楽しむ習慣があったので、天智天皇もいつものように狩りに出掛けたのですが、そのまま大津京に帰ってこなかったのです。

当時の大津京の人々は天智天皇の行方を捜索しましたが、行方はわからずじまい。
ところが現在のお墓のある場所に天智天皇が履いていた靴が落ちていました。
そのため天智天皇は行方不明のままですが、靴のあった場所を天智天皇のお墓にしたと言われています。

天智天皇のお墓の前
▲お墓の前は木々も無い

乙巳の変は正しい選択だったのか?

学校の授業では乙巳の変は正しい出来事として習いました。
当時の権力者である蘇我入鹿は天皇家よりも権力と財産を持っており、自分達が有利になるように政治を動かしていました。
一方で当時の中国と朝鮮半島では国同士で戦争が多発しており、いつ海を渡って日本に攻めてくるかわからない状況でした。

もしものことを想定すると蘇我氏が権力を持つ体制では国を守ることができない。
日本を守るためには国をまとめること、中国や朝鮮軍が攻めてきても跳ね返すことのできる軍事力を備える必要がありました。

しかし蘇我氏が好き勝手な政治をしているおかげで、国はまとまるどころか不満でいっぱい、とても大陸と戦える状態ではありませんでした。
そこで腐敗した国内政治を立て直すため、海外の脅威から日本を守るために天智天皇は蘇我氏を倒さなければならないと考えたのでした。

天智天皇山科陵
▲天智天皇山科陵

公地公民と中央集権国家への変革

蘇我入鹿を倒した後は、国の土地は個人のものではなく天皇(日本国)のものであるとして、国から個人へ一時的に貸す代わりに税金を国に納める仕組みに変革されました。
この仕組みを公地公民制といい、この仕組みによって各地から国へ税金が集まるようになりました。

そしてその税金を使って街を建設したり、軍隊を作り、敵の侵入を防ぐ城や要塞を作ることで大陸からの侵略に備えました。
大昔の人と言えども、きちんと国の危機に対してどうすべきか考えて実行していた訳です。

現在の私達でも何か問題や危機が起きると、国の仕組みを変えたり新しく作ったり考えたりするのは難しいことなのに(私なら思いつかない)、とても立派だったと思います。

天智天皇山科陵
▲神社のように鳥居が立つ

天智天皇は権力を握りたかっただけ?

大化の改新は正しい出来事として評価される一方で、実は天智天皇が権力を握るためだけだったのはないかという説もあります。

その理由は蘇我入鹿が権力を持ったままなら、天智天皇は天皇になれなかった可能性が高いからです。
当時の天皇は現在と違って子供がたくさんいることが多く、そのために誰の、どの子供が次の天皇になるのかは激しい競争が起き続けてきました。
その競争はただの勝ち負けだけでなく、生きるか死ぬかの残酷な出来事も多々ありました。

天智天皇の父親である舒明天皇には、天智天皇の母親だけでなく蘇我馬子の娘も妻の一人としていました。(当時は妻が何人いても問題は無く、特に天皇は妻が一人だけのことは無い。)
そして馬子の娘との間にも古人大兄皇子という有力な次期天皇候補がいまして、蘇我氏は天智天皇ではなく、古人大兄皇子を天皇にするつもりでした。

天智天皇山科陵
▲出口へと続く道

学校で習わない天智天皇の裏の顔

もしも古人大兄皇子が天皇になれば、その次の天皇は古人大兄皇子の子供です。
そうなれば天智天皇が天皇になる可能性は低く、蘇我氏も自分と血の繋がりのある子供を天皇にすることで自分が有利になる政治をすることができます。

実際に天智天皇は蘇我氏を討った後に古人大兄皇子を処刑しています。
また他にも天皇候補になる人は処刑しました。
もしも天皇を中心とした体制を作ることが目的ならば、蘇我氏だけを討ち取るだけで目的は達成できたはずです。

しかし天智天皇は天皇候補になる人物はことごとく処刑しました。
だからこそ彼が実行した結果を見ると、自分が権力を握ることが目的だったのではないかと考えられているのです。

天智天皇がどう考えていたかはわかりませんが、天智天皇の大化の改新のおかげで日本が守られたことは良かったことだと思います。

天智天皇山科陵へのアクセス方法

京都駅から天智天皇陵へは地下鉄で行きます。
市営地下鉄の烏丸線で烏丸御池駅まで行き、同じく市営地下鉄の東西線に乗り換えて御陵駅を降りたら徒歩10分ほどで到着です。
(京都駅から御陵駅までは乗車時間16分。乗車賃290円)