京都の歴史修学旅行レポート

京都の詩仙堂の歴史を修学旅行レポートとして提出いたします。

詩仙堂庭園

詩仙堂庭園
▲詩仙堂庭園

詩仙堂の歴史を修学旅行レポートとして。

こんにちは。
今回は京都の詩仙堂の歴史について記事にしました。

詩仙堂(しせんどう)は京都に数ある観光地の中でも人気の場所。
私の印象では特に女性やカップルで訪れる人の割合が高いような気がしています。

詩仙堂はこじんまりとした広さの境内に美しい庭園を持ち、畳の上に腰かけて静かに、そして心を落ち着けて庭園を眺めることができます。
品のある雰囲気に包まれる境内には、一定のリズムで鹿おどしの「カンッー」という水でいっぱいになった竹筒と石がぶつかることで鳴る音が響き渡る心地良さが魅力です。

今回は詩仙堂の歴史を修学旅行レポートとして学校の担任の先生に提出するつもりで記事にしてみました。

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詩仙堂小有洞
▲詩仙堂の山門こと小有洞

誰によって詩仙堂は建てられたのか?

詩仙堂は江戸時代に石川丈山(いしかわじょうざん)という元武士によって建てられました。
石川丈山は江戸幕府を設立した徳川家康に仕えた武士でしたが、家康が豊臣家を滅ぼすこととなった大阪の陣の後に武士を引退し、人里離れたこの地で隠居生活を送るために詩仙堂を建てました。

詩仙堂という名は正式名称ではなく、凹凸か(おうとつか)が正式名称です。
凹凸かとは、でこぼこした土地に建てた住居という意味があり、詩仙堂の入口から庭園に足を踏み入れると確かにでこぼこの土地であることがわかります。
詩仙堂から庭園
▲真夏に庭園を眺める。

詩仙堂という名前の由来

ですが多くの人は凹凸かとは呼ばずに詩仙堂と呼びます。
詩仙堂と呼ばれるようになったのは、凹凸かの建物の中心にある詩仙の間に由来します。

詩仙の間には部屋の頭上に中国の有名な詩人36人の肖像画が掛けてあり、その肖像画が当時の有名画家である狩野探幽(かのうたんゆう)によって描かれていること、その肖像画に石川丈山自ら詩を書いたことから、詩仙の間が建物の中心的役割を持つので詩仙堂と呼ばれるようになりました。
詩仙堂の庭園
▲詩仙堂の庭園

多くの人は庭園しか見ていないけどね。

正式には詩仙堂の中心は詩仙の間だとしても、多くの人にとっては美しい庭園こそが詩仙堂の中心です。笑
詩仙堂の庭園は実際の広さよりも広く見えるように工夫がなされています。
部屋の前にある庭は建物と同じ高さに作られていますが、庭の奥にある庭園からは地面が下がっていくことから奥行きを感じるように、より立体的に庭園が見えるようになっています。

詩仙堂の庭園は石川丈山自らが配置や建造物を考案しているので、彼が戦いに明け暮れただけの武士だけではなかったことがわかります。
丈山は武士でありながら芸術家としても評価される人物でした。丈山は幼い頃から頭が良いことでも知られ、読書や詩を書くことを好みました。

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詩仙堂の庭園から建物を見る
▲庭園から詩仙堂を眺める。

石川丈山は武士でありながら芸術家

武士と言えば命がけの戦いを続ける人達と思いきや、昔の武士達は教養を身に付けることも必要だと考えていました。
人の命を絶つということは、ただ残忍な性格が求められるのではなく、世の中の仕組みや人間のことを良く知っている必要があったのか。自分だけでなく部下や多くの人に指示を出ししながら敵の命を絶って勝利しなければなりません。

そして多くの命を絶った先にある勝利を手に入れた時、丈山はどんな気持ちだったのでしょうか?
そんな人間がこんなにも美しい詩仙堂を建てることのできる感性、センスを兼ね備えていたことにあらためて驚きます。江戸時代の人達だけでなく、約400年後に生きる私達も庭園の美しさに魅了され続けています。
紅葉時の詩仙堂
▲紅葉時期の詩仙堂は人混みが凄い。

石川丈山が隠居したきっかけ

石川丈山は徳川家康の部下として戦で活躍していましたが、大阪の陣である失敗を犯してしまいました。

石川丈山は愛知県に生まれ、父親側の祖父の代から徳川家康に仕える家に生まれ、母親は家康の側近である本多家の姪という血筋ということもあり、幼い頃から家康の近くで活躍しました。
特に武士としての強さは有名で、敵の大将や重要な武士を討ち取り家康からも信頼を得ていました。

大阪の陣でも豊臣家の重要な武士を討ち取り、一緒に戦った武士達からも石川丈山こそが最も成果を上げた武士であると賞賛されました。
しかし石川丈山は家康の命令を無視して敵陣に乗り込んだために、家康から謹慎処分を言い渡されてしまいました。
紅葉時の詩仙堂
▲紅葉と詩仙堂

成果を残すことよりも上司の指示に従うべきか

丈山と一緒に戦った武士達が丈山の活躍を賞賛するほどの成果を上げたのですが、家康は自分の側近達に向けて最前線には行くなと指示していたのです。
大阪の陣は家康が勝利することが最初から見えていたので、家康はわざわざ自分の大切にする側近達がむやみに命を落とすことが無いように指示していました。

しかし石川丈山としては自分がこの戦いに決着をつける気持ちで自分で考えたベストな戦略を持って最前線に乗り込み、結果として最大級の成果を上げたのです。
しかし家康は自分の命令を無視した丈山を評価することなく、むしろ処罰することを決めました。
このことに不満を持った石川丈山は武士を引退し、隠居生活をすることに決めたのでした。

詩仙堂へのアクセス方法

京都駅から詩仙堂へは電車と徒歩で行きます。
詩仙堂から電車の最寄駅である一乗寺駅までは徒歩で約20分ほど。
さらに一乗寺駅は叡山電鉄の駅でして、京都駅から2回も乗り換えが必要なので手間がかかります。

京都駅からJR奈良線に乗り1駅先の東福寺で降りて京阪電車に乗り換え。
東福寺駅から出町柳駅まで乗り、出町柳駅で叡山電鉄に乗り換え後に一乗寺駅で下車。
一乗寺駅からは徒歩で約20分ほどで詩仙堂に到着。
(京都駅から東福寺駅まで乗車時間:2分。乗車賃:140円 ⇒ 東福寺駅から出町柳駅までは乗車時間:10分。乗車賃:270円 ⇒ 出町柳駅から一乗寺駅まで乗車時間:6分。乗車賃:210円 )