京都の歴史修学旅行レポート

京都方広寺の歴史を修学旅行レポートとして提出します。

方広寺国家安康君臣豊楽

方広寺釣鐘
▲方広寺にある鐘には有名な文章が書かれている。

方広寺の歴史を修学旅行レポート。

こんにちは。
今回は京都にある方広寺(ほうこうじ)の歴史について記事にしました。

学校の日本史の授業を真面目に受けていた人は、方広寺という名前に聞き覚えがあるかもしれません。方広寺鐘銘事件(ほうこうじ しょうめい事件)と呼ばれる、豊臣家が徳川家康によって滅亡することとなった大阪の陣を引き起こした事件が起きたお寺になります。

方広寺は豊臣秀吉によって建てられたお寺であり、建設当初は奈良の大仏よりも大きな大仏が建っていたことで知られています。
現在の方広寺には地震や火災によって大仏は残っていませんが、秀吉の権力と経済力の大きさを当時の世の中に示す立派な寺院でした。
しかし現在の方広寺の境内はとても小さくて訪れる観光客も少なく寂しい雰囲気が漂っています。

一体どんな歴史があったのでしょうか?
今回は方広寺の歴史について修学旅行のレポートを担任の先生に提出するつもりで記事を書いてみました。

方広寺国家安康君臣豊楽
▲国家安康君臣豊楽

豊臣秀吉によって方広寺は建てられました。

方広寺は豊臣秀吉によって建てられた巨大寺院でした。
建設当初には奈良の東大寺の大仏よりも大きな大仏が境内に鎮座し、境内も現在の三十三間堂や京都国立博物館も含む広大な敷地を有していました。

秀吉は刀狩令によって農民たちから武器を取り上げたことを学校の授業で習いましたが、その武器はすべて方広寺の大仏建設の材料として使われました。農民から武器を取り上げることで反乱を抑えながら、秀吉が建設する巨大な大仏に使われるのだからご利益があると言って建設材料も集めることに成功したのです。

方広寺は秀吉にとって天下統一を果たした自分の権力を世の中に示すことに大きく貢献しました。
完成した大仏は高さが約20メートルもの大きさだったと言われており、ちなみに奈良の大仏は約18メートルの高さになりますので方広寺の大仏の方が大きかったようです。
もし方広寺の大仏が残っていれば京都で人気の観光名所になっていたことは間違いありません。
豊国神社鳥居
▲方広寺の隣には秀吉を祀る豊国神社がある。

秀吉による道路整備

また秀吉は京都の町の人達が方広寺に参拝するようにと宣伝すると共に、町の道路を無理やり整備することで人の流れを作りました。
例えば源義経が弁慶と戦ったことで知られる五条大橋を取り壊して、五条大橋から南へ200m程の場所に新たに五条大橋を建てることを行いました。

元々の五条大橋は町の人が清水寺へ参拝するために使っていた橋だったのですが、それを取り壊して方広寺の方角へ行きやすくした新しい橋を建ててしまったのです。
そのため現在の五条大橋は本来の源義経と弁慶が戦った場所ではないのですが、義経と弁慶が戦っている石像が建っています。。。本当に義経と弁慶が戦った橋は現在の松原橋になります。橋の規模が全然違うんです。

わざわざ秀吉がそんなことをしたのは、当時の京都の町の人は清水寺に参拝することが多く、古くから清水寺を信仰していました。
しかし秀吉は今後は清水寺よりも自分が建てた方広寺を信仰させるために、清水寺に通じる五条大橋を外して、方広寺へと通じる新たな五条大橋を建てたのでした。
方広寺の鐘
▲方広寺の鐘

方広寺鐘銘事件(ほうこうじ しょうめい事件)

豊臣秀吉によって方広寺は建てられたのですが、息子の秀頼が作った釣り鐘が原因で豊臣家が滅亡への道を歩むことになる事件が起きました。
秀頼は釣り鐘を方広寺に奉納したのですが、その鐘には漢文である文字が彫られていました。「国家安泰 君臣豊楽」という文字が書かれていることに徳川家から批判が起きました。

国家安泰 は家康の家と康を離して書くことで徳川家へ呪いをかけている!君臣豊楽 は豊臣家だけの繁栄を願う意味がある!

豊臣家が徳川家を倒して国家転覆を狙っている証拠だと、ほとんどイチャモンと言って問題ありません。
そしてこの事件をきっかけに徳川家康は豊臣家と全面戦争にまで突き進み、大阪の冬の陣、夏の陣を経て豊臣家を滅亡させることに成功したのでした。

豊国神社参道
▲豊国神社の参道

家康がどうしても豊臣家を滅ぼしたかった訳

家康はずっと豊臣家を滅ぼしたい思いを持っていたころから、半ば強引な手段を用いて戦争に持ち込んだと言われています。

最近読んだ「お金の流れで読む戦国時代」という本の中でも、経済面で当時日本一の商業都市である大阪に拠点を持つ豊臣家を家康はずっと危険視していたと述べられていました。

関ヶ原の戦いで敗北したことから徳川家に多くの土地を奪われた豊臣家ですが、大阪の土地だけは奪われていなかったのでお金はたくさん持っていることを家康は将来に反乱を起こす存在として危険視していたのでした。
方広寺の鐘堂
▲方広寺境内

徳川家康による徹底的な秀吉排除

方広寺は巨大寺院として建築されたものの、大阪の陣によって豊臣家が滅亡した後は家康は徹底的に京都から秀吉とゆかりのある建物を取り壊していきました。

そのため巨大な大仏を含めた方広寺は大仏や建物は取り壊し、現在は鐘と法堂だけが残る寂しいお寺となってしまいました。

最後は忍耐をし続けた家康が天下を取ったことを物語る象徴的な静けさが方広寺には漂っています。

方広寺へのアクセス方法

方広寺へは京都駅からバスで向かうのが一番簡単です。
有名観光名所の三十三間堂から歩いて5分程の場所に方広寺はありますので、京都駅から三十三間堂へ向かうバスで三十三間堂前で降りると良いと思います。

ちなみに私は京都駅から歩いて約15分ほどで行くことがあります。