京都の歴史修学旅行レポート

京都大徳寺の歴史|千利休とゆかりのある禅寺

京都大徳寺金毛閣

大徳寺の境内
▲境内

大徳寺の歴史|修学旅行レポート

今回は京都にある大徳寺の歴史について。

大徳寺は千利休と縁の深いお寺。
織田信長や豊臣秀吉とのゆかりもあることで知られています。

大徳寺の歴史

①金毛閣と千利休
②宗峰妙超が建てた
③幕府や朝廷から自立
④茶の湯の聖地

京都大徳寺金毛閣
▲金毛閣

金毛閣の千利休木造

大徳寺の歴史の中で最も印象的な出来事と言えば。
千利休が切腹する原因の1つと言われる金毛閣についてです。

金毛閣(きんもうかく)の2階に千利休の木造が置いてあったのですが。
金毛閣を通った豊臣秀吉がそのことを人から聞き。
千利休の股の下を通らされたことに激怒。
そんだけのことで豊臣秀吉は千利休に切腹を命じたのでした。

理不尽に感じてしまうエピソードですが。
本当に千利休は切腹してこの世を去ったから驚きです。

大徳寺黄梅院入口
▲黄梅院

誰が大徳寺を建てたのか?

話を大徳寺の始まりに戻しまして
大徳寺は1325年に宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)によって建てられます。

大徳寺は後醍醐天皇から帰依を受け。
五山制度と呼ばれる禅宗寺院の格付けで最も権威のある地位を得ます。

ところが後醍醐天皇を倒した足利尊氏が室町幕府を設立して立場が変わります。
足利尊氏によって五山制度の中でも格下の地位へと追いやられてしまいます。

この影響で幕府からの支援も減ることになったので。
大徳寺は京都五山制度から脱会して自立の道を歩み始めました。

高桐院参道
▲高桐院

商人や庶民から支持

大徳寺が一気に有名になるのは戦国時代。
日本で最も繁栄していた商業都市、大阪の堺の商人達から支持を受けて発展しました。

当時の堺は鉄砲の生産地として栄えており。
織田信長や豊臣秀吉などの戦国武将との付き合いも深く。
堺の商人達は戦国武将達に武器を販売することで地位を高めていきました。

堺の商人達の地位が上がると同時に彼らが支持する大徳寺の地位も再び向上。
最初は武器商人として織田信長や豊臣秀吉と付き合い始めた千利休。
いつの間にか茶人として有名になってきます。

高桐院の茶室

▲高桐院の茶室

茶の湯の発展

千利休は大徳寺との縁が深くて。
山門である金毛閣(2階)は千利休が建てました。

千利休が確立した侘び茶の発信地としても機能し。
大徳寺には利休の影響を受けた塔頭がたくさんあります。

弟子も多くいた千利休でしたが。
弟子が千利休のために千利休の木造を金毛閣に置いたことが悲劇に繋がりました。

大徳寺塔頭総見院
▲総見院

大徳寺は塔頭が多過ぎる

大徳寺は塔頭(たっちゅう)と呼ばれる大徳寺で学ぶ僧侶が大徳寺の境内に建てた小さな院が集まって構成されています。秀吉が建てた信長のお墓のある総見院や、細川家の菩提寺である高桐院、庭園が有名な大仙院が有名どころでしょうか。

しかしながら通年で公開している塔頭は限られていまして、あまり観光客のために開かれたお寺ではないので訪れる人もあまりいないです。
そのため戦国時代が好きで大徳寺を訪れた人は、あまりに観光に力を入れていない雰囲気に戸惑うかもしれません。私は観光客が少ないほうが有り難いと感じますが。。。

大徳寺へのアクセス方法

大徳寺へは京都駅から地下鉄で北大路駅で降りた後、大徳寺行きのバスに乗って到着。
大徳寺を見終わった後は、近くにある今宮神社であぶり餅を頂くことをおススメです。