京都の歴史修学旅行レポート

新日枝神宮の歴史を修学旅行レポートとして提出いたします。

新日吉神宮鳥居と楼門

新日吉神宮楼門
▲新日吉神宮の楼門

新日吉神宮の歴史を修学旅行レポートとして。

こんにちは。
今回は新日枝神宮の歴史について記事にしました。

新日枝神宮(いまひえじんぐう)の存在を知っている人はいるのでしょうか?
他県にお住まいの方はもちろんのこと、京都にお住まいの方でもあまりいないのではないでしょうか。
場所は京都国立博物館や三十三間堂などの観光名所の近くにありますが、私は新日枝神宮の境内で観光客や修学旅行生を見たことはありません。

今回はそんな新日枝神宮の歴史について修学旅行レポートを学校の担任の先生に提出つもりで記事にしてみました。

新日吉神宮本殿
▲本殿

誰が建てのか?

新日枝神宮は平安時代の1160年に後白河上皇が建てました。
後白河上皇(ごしらかわ上皇)と言えば、武士が歴史の主役に躍り出るきっかけとなった保元の乱や平治の乱が起きた頃に天皇だった方でした。

後白河上皇は平治の乱で平清盛を味方に引き入れることで勝利し、今後は清盛のような強い軍事力を持たなければ権力を握ることができないことを実感し、平清盛を側近として抜擢しました。
そして後白河上皇は現在の三十三間堂のある辺りにあった御所(天皇が暮らす建物)で生活し、政治を動かしていました。

新日吉神宮狛猿
▲新日吉神宮の狛猿

名前の由来

新日枝神宮は名前に「新」がつくことから、元になる神社があります。
京都の隣にある滋賀県、京都市内から見える比叡山の裏側に日枝大社(ひよしたいしゃ)という神社があり、それが元と言いますか、本体の神社になります。

日枝大社の歴史はとても古く、日本の都が京都に移る前から存在しています。
学校の教科書に登場した最澄(さいちょう)は日吉大社の近くで生まれ、日吉大社の神様を信仰していたと言われています。
そして最澄は日吉大社の裏にある比叡山で天台宗の延暦寺を建てました。

後白河上皇も日吉大社の神様を信仰しており、神様が自分を守ってくれるようにと新日枝神宮を建てました。
新日枝神宮には日吉大社で祀られている神様が祀られており、日吉大社の神様が勧請(かんじょう)された神社となります。

日枝大社奥宮
▲滋賀県にある日枝大社の奥宮は山の頂上にある。

勧請とは

勧請とはある神様の分身、分霊を他の地に移して祀ることを言います。
なので日吉大社の神様は滋賀県にいるままですが、その分身が新日吉大社でも祀られているということです。

天皇は遠出できないので京都の隣と言えども、頻繁に滋賀県に行くことができません。
それでも信仰している神様を祀りたい時には、自分の住む地域に神様を勧請するという方法がとられていました。

新日吉神宮鳥居と楼門
▲参道と楼門

勧請された神社は日本中にたくさん。

この勧請された神社は日本各地にあります。
例えば名前に天満宮が入っている神社は、京都の北野天満宮が本体で、勧請された神社が全国各地にあります。
また名前に稲荷が入っている神社は京都の伏見稲荷大社が本体ですし、八幡宮が名前に入っている神社も京都にある石清水八幡宮が本体だったりと、全国各地に勧請された神社はたくさんあります。

新日吉神宮境内
▲境内の様子

秀吉を祀る豊国神社が建っていた頃

後白河上皇によって建てられた新日枝神宮ですが、時代が経つにつれて廃れていた時期がありました。
その間に現在の土地には豊臣秀吉を神様として祀る豊国神社が建っていた時もありました。

現在の新日枝神宮があるエリアは、豊臣秀吉が京都を支配していた頃に秀吉によって多くの建物が建てられていました。
現在の京都国立博物館のある場所には奈良の大仏よりも大きな大仏が秀吉によって造られ、隣の智積院のある土地には秀吉の子供だった鶴松を弔う祥雲寺という大変立派なお寺が建っていたりと秀吉が自分の権力の大きさ示す場所として発展しました。

秀吉のお墓も新日枝神宮の東にある阿弥陀ヶ峰にあり、現在の新日枝神宮近くには秀吉の死を弔うために秀吉を神様とする豊国神社が建てられていました。

新日吉神宮本殿
▲本殿

豊臣家を滅ぼした徳川家康による取り壊し

豊臣秀吉の次に権力を持った徳川家康は、秀吉と縁のあるこの地域からほとんどの建物を取り壊しました。
家康にとって秀吉を支持する人達は将来の自分の地位を脅かす存在です。

なので秀吉を神様として祀る豊国神社はもちろん、秀吉の子供だった鶴松を弔う祥雲寺も別のお寺に建替えることで人々から秀吉の存在を消そうとしました。
そのためこのエリアから秀吉と縁のある建物は無くなってしまいました。

新日吉神宮阿弥陀ヶ峰
▲鳥居の先にある山には秀吉のお墓である豊国廟がある。

明治時代に復活

そして明治時代になってから豊国神社の跡地に、廃れていた新日枝神宮が復活されました。
豊国神社も復活しましたが、現在の新日枝神宮から西側の別の場所に建てられています。
新日枝神宮の歴史は平安時代から続いていますが、何となく境内の雰囲気が新しいのは明治時代に建てられた建物だからということに納得できました。

新日枝神宮の歴史を振り返ると、多くの人が自然に信仰してきた神社ではなく、天皇や権力者の都合によって建てられた神社のようです。

何となく境内も寂しいと言いますか、乾いた空気が漂っています。
こんなこと言うと怒られそうですが、明治時代に建てられた神社って神様がいるという雰囲気を感じないと言いますか、ただ建物を建てただけって感じがすることが多いと感じています。

新日枝神宮へのアクセス方法

新日枝神宮の近くには京都国立博物館や三十三間堂がありますので、京都駅からバスで京都国立博物館に行き、バス停から歩いて行くのが良いと思います。
バス停からは東へ向かい、後は登坂を登ると覚えておけば到着します。
(京都駅から博物館三十三間堂前駅まで。乗車時間:7分。乗車賃:230円)