▲枝垂れ桜
高台寺の歴史を修学旅行レポートとして。
今回は高台寺の歴史について。
高台寺(こうだいじ)は京都でも美しいお寺。
春は京都を代表する人気桜スポットの1つです。
①秀吉の妻ねねが建てた
②秀吉を弔うため
③徳川家康による援助
▲勅使門と方丈前庭
秀吉の正室ねねが建てた
高台寺は豊臣秀吉の妻ねねによって建てられました。
目的は秀吉の死を弔うためと言われています。
秀吉は女好きと知られていまして。
出世するにつれて多くの女性と契りを交わしました。
ただし秀吉とねねの出会いは秀吉が織田信長の部下として頭角を現す前のこと。
しっかり者のねねの貢献が秀吉の活躍を支えたと言われていますし。
後に秀吉を支える武将達からも深く慕われていました。
▲開山堂
徳川家康が資金面を援助した
高台寺を建てたいと決めたのはねねですが。
建設費用に関しては徳川家康が援助したことで知られています。
秀吉と家康の関係性は敵対関係にあるのに。
家康がねねに援助したことは注目です。
関ケ原の戦いにおいて、
ねねにお世話になった秀吉の部下達が家康側に味方しましたし。
裏で家康とねねが繋がっていたことで知られています。
▲霊屋
ねねと徳川家康の関係
ねねは秀吉が次々に若い女性を側室に迎えることに心を痛めました。
残念ながら秀吉とねねの間で子供ができなかったこともあり、
後継ぎとなる秀頼を生んだ側室の淀殿の地位も上がり、
ねねの豊臣家内の地位も下がっていきました。
そうした状況でねねは徳川家康と親交があり、色々と相談していました。
さらに秀吉の部下達の間にも対立が起きており、
石田三成 VS 秀吉の若い頃を支えた部下達との対立が限界を迎えます。
▲勅使門
ねねを慕う秀吉の部下達が関ヶ原の合戦で家康に味方をした。
ねねの元を訪れた部下達はねねに石田三成の不満を話すと、
ねねは将来に家康と豊臣家が対立する際には家康側に味方しなさいと言われています。
その結果、関ヶ原の合戦では秀吉の部下だった武将も家康側に味方して家康の勝利に貢献しました。
関ヶ原の合戦では小早川秀秋が悩んだ末に家康側に味方したことが家康勝利の決定的な要因となったことが有名ですが。
小早川秀秋はねねの甥でもありました。
▲大阪の陣では大阪城から上がる煙が見えたという。。。
豊臣家滅亡の中でねねだけが生き残った
豊臣家は徳川家康によって一族滅亡になりましたが。
ねねは京都の地で生き残りました。
当時は高台寺から大阪城が燃える煙が見えたそうです。
京都の中でも高台寺は美しいお寺の1つですが。
その歴史は少し暗いのが心に残ります。
高台寺へのアクセス方法
京都駅から高台寺へは京都駅前のバスターミナルから清水寺行きのバスに乗り、バスの運転手さんが清水寺へ行く人はこちらで降りて下さいと案内があるのでそこで降りてから歩いて行くのが良いと思います。
高台寺は世界遺産の清水寺からも近く、八坂神社や円山公園、知恩院や青蓮院、縁切り神社として有名な金毘羅宮など観光名所が集まっていますので一緒に巡ることをおススメします。