▲銃痕
蛤御門の変の歴史を修学旅行レポートにて。
今回は蛤御門の変(禁門の変)について。
蛤御門の変(はまぐりごもんの変)は幕末に起きた暴動事件。
長州藩が起こしたテロ事件です。
①長州藩が起こした
②長州藩が敗北
③長州藩の思惑
④京都の文化を破壊した
⑤今も語り継がれる悪事
▲蛤御門
長州藩が起こした悪事
大人になって蛤御門の変のことを調べたら驚きました。
蛤御門の変を起こしたのは長州藩ですが。
はっきり言って長州藩が悪すぎます。
蛤御門の変の概要をまとめますと。
当時の天皇だった孝明天皇を拉致するために、
軍隊で京都に乗り込んで敗北した事件です。
当時は薩長同盟を結ぶ前でしたので。
薩摩藩は長州藩の敵として、幕府と共に天皇を守るために戦いました。
後に薩長同盟によって薩摩藩と長州藩が手を組むのが不思議。
それくらいに長州藩が100%悪い大事件でした。
▲京都御苑
なぜ長州藩は暴走したのか
長州藩は攘夷派でした。
要は鎖国体制を維持したい、開国反対を主張していました。
幕府がアメリカと結んだ日米和親条約や日米修好条約を批判し、
打倒幕府を目指していました。
そのため開国反対だった当時の天皇、孝明天皇を利用することを考えます。
自分達の理想を実現するために京都で幕府側の人間を暗殺しまくり、
朝廷に自分達の息がかかった公家を送り込む活動を行っていたのですが、
八月十八日の政変と呼ばれる長州藩派の人間を朝廷から排除する政治的事件により
今までの努力が全て無駄になります。
そのタイミングで起死回生の一手として実行したのが、
武力行使を用いて孝明天皇を長州藩に拉致すること目的にした蛤御門の変です。
▲京都御所を囲む壁
西郷隆盛率いる薩摩藩や新撰組の活躍により長州藩は敗北。
京都御所は塀に囲まれており、東西南北に大きな門がいくつかあります。
その中でも西側にある蛤御門の前で最も激しい戦闘が行われたことから
蛤御門の変と呼ばれるようになりました。
蛤御門には長州藩が撃った銃痕が門に残っています。
蛤御門は幕府側の守りが破られて長州藩兵士達が京都御所内に流れ込みますが
西郷隆盛が率いる薩摩藩が蛤御門を突破した長州藩を撃退。
孝明天皇を守ることができました。
蛤御門の変の後に長州藩は天皇からも反逆者と見なされて、
長州征伐と呼ばれる幕府軍の侵攻を受けることとなります。
さらに関門海峡を通る外国船に大砲を打ち込んだ報復として
アメリカ・イギリス・オランダ・フランスの連合軍からも侵攻されることになり、
長州藩は今の力では文明の進んだ外国にはどうやっても勝てないことを感じたのでした。
▲祇園祭の菊水鉾
どんどん焼きで語り継がれる被害
蛤御門の変によって京都市街地は火災となり。
現代まで語り継がれる被害が発生しました。
一番印象的なのが祇園祭です。
火災によって大切は鉾やお囃子の楽譜が焼失した鉾があり、
祇園祭の度に蛤御門の変のせいで当時の鉾が焼失した話、
復興に尽力された物語などが祇園祭に訪れた人達に語り継がれています。
祇園祭が続く限り長州藩の悪事が語り継がれているのです。
蛤御門の変へのアクセス方法
京都駅から蛤御門へは市営地下鉄で今出川か丸太町駅で降りた後、徒歩10分ほどで到着します。
京都御所を見学する場合は今出川駅からのほうが京都御所通年参観受付が近いので、今出川駅で降りることをおススメします。
京都御所を参観した後に、蛤御門もついでに訪れてみてはいかがでしょうか?
近くには和気清麻呂を祀り、足腰の健康にご利益があると言われる護王神社や、足利義満が建てたことで知られる相国寺も一緒に巡ることをおススメ。また生麩で有名な麩嘉が近くにありますので、生麩まんじゅうを是非一度食べて頂くこともおススメさせて頂きます。