▲弥勒菩薩半跏思惟像
広隆寺の歴史を修学旅行レポートにて。
今回は広隆寺の歴史について記事にしました。
広隆寺は京都の太秦(うずまさ)にあるお寺。
聖徳太子を祀るお寺として知られます。
①秦河勝が建てた
②聖徳太子を祀る
③弥勒菩薩半跏思惟像を所有
▲広隆寺の南大門
秦河勝が建てた
広隆寺は701年に秦河勝(はたのかわかつ)によって建てられました。
秦河勝は秦氏と呼ばれる中国大陸から日本に渡って来た渡来人の一族です。
当時は渡来人は日本より進んだ知識、大陸の先進的な技術を持つ貴重な存在でしたので、
日本の天皇家や貴族達も彼らに土地や好待遇を与えることで彼らの知識を利用しました。
秦氏は現在の嵐山から太秦エリアと千本鳥居で有名な伏見稲荷大社のある地域で暮らし、
川が氾濫しないように堤防を作ったり、お寺や神社なども建設しました。
また養蚕機織や農耕技術、お酒を造る技術が優れており、
日本の発展に大きく貢献しました。
そして秦氏にとって生活の拠点となった太秦には、
彼ら一族の象徴として広隆寺が建てられたのでした。
▲弥勒菩薩半跏思惟像を描くポスター
秦氏と聖徳太子の深い関係性と弥勒菩薩半跏思惟像
広隆寺には日本の国宝第一号に登録されている弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつ はんかしい像)を所蔵していることで知られています。
学校の歴史教科書や資料集で一度は見たことがある人が多いのではないでしょうか?
この弥勒菩薩像は聖徳太子が広隆寺を建てた秦河勝が与えたものだと言われています。
聖徳太子こと厩戸皇子は十七条の憲法や官位十二階を制定するだけでなく、
仏教を広めた人物として仏教界では神聖化された存在です。
聖徳太子は非常に優秀で頭も良かったのですが、
渡来人からも多くの知識を学んだと言われています。
秦氏は聖徳太子に対して多くの知識を与え、聖徳太子は秦氏から多くのことを学び、
彼らとの関係も深くなっていきました。
秦氏にとっても朝廷内で摂政として高い地位にいる聖徳太子から信頼を得ることは大きなメトでもありました
▲太子殿
聖徳太子を祀る
広隆寺は聖徳太子を祀るお寺です。
広隆寺は元々は創設者の秦河勝が所属する秦一族を象徴するお寺でしたが、
聖徳太子との深い繋がりにより聖徳太子が亡くなると広隆寺では聖徳太子を祀るようになりました。
一般的なお寺では本堂にそのお寺で信仰する仏様を祀りますが、
広隆寺の本堂は聖徳太子殿と呼ばれ聖徳太子像が祀られています。
上宮王院太子殿には聖徳太子と書かれた額縁が多く見かけます。
聖徳太子が生きていた頃は日本の都は京都ではなく奈良県でしたが、
聖徳太子は広隆寺だけでなく京都にも足を運んだようでいくつか足跡を残しています。
私が知っているだけで広隆寺、六角堂、苔寺、寂光院には聖徳太子がお寺を建てたなどのゆかりがあります。
聖徳太子は古代において最も有名な歴史上の人物ですが、彼についてはわからないことが多いです。
一説には存在自体も作り話とするものもあります。
十七条の憲法や官位十二階などの仕組みを設立するだけでなく人格も優れており、
実際の人物像よりも過剰に表現され、神格化されて語り継がれている部分もあります。
▲霊宝殿には弥勒菩薩半跏思惟像などの国宝が展示されています。
聖徳太子の功績と悲劇
聖徳太子が生きていた頃は聖徳太子と呼ばれておらず、厩戸皇子と呼ばれていました。
厩戸皇子の功績は多くの人から尊敬されていたことと彼の息子である山背大兄王が政治権力争いに敗れて暗殺されて厩戸皇子一族が途絶えてしまう悲劇が起きたことで、聖徳太子が伝説化することに拍車をかけることになりました。
京都で勢力を広げた秦氏は平安時代においても朝廷と繋がりを保ち、平安京への遷都を実施した桓武天皇が都を遷す決断をした背景には秦氏の影響力があったと言われています。
広隆寺は観光地としては知名度が高くありませんが、長い歴史を持つお寺です。
広隆寺へのアクセス方法
広隆寺は太秦映画村の隣にあります。
そのため京都駅からJR山陰本線に乗って太秦駅で降りた後に徒歩で広隆寺に向かうのが良いかと思います。
(京都駅から太秦駅までは5駅。乗車時間:14分。乗車賃:200円)
また京都駅前には各観光地行きのバスも運行していますので、バスで広隆寺前まで行くことも可能です。
(バスで京都駅から広隆寺まで行く場合:乗車時間:30分 乗車賃:230円)
ただし私個人的には京都でバスに乗ると渋滞や満員バスに巻き込まれることが多いので、私は京都ではバスを極力使いません。。。(*_*;