京都の歴史修学旅行レポート

京都建勲神社の歴史を修学旅行レポートとして提出致します。

建勲神社拝殿から本殿

建勲神社本堂
▲建勲神社本殿

建勲神社の歴史を修学旅行レポートとして。

こんにちは。
今回は京都にある建勲神社の歴史について記事にしました。

建勲神社(けんくん神社)は織田信長が祀られている神社として知られています。
戦国時代に実在した人間である織田信長は神様となって人々を見守る存在として親しまれています。

建勲神社には信長が桶狭間の戦いで使用していた刀と、紺糸威胴丸と呼ばれる室町時代に作られた鎧が所蔵されており、地域の人達だけでなく歴史好きの織田信長ファンも訪れる神社となっています。

今回は建勲神社の歴史を修学旅行レポートとして学校の担任の先生に提出するつもりで記事にしてみました。

建勲神社から見える大文字
▲建勲神社から見える大文字

誰が建勲神社を建てのか?

建勲神社は織田信長が生きた安土桃山時代ではなく、明治時代に明治天皇の勅命によって建てられました。

勅命(ちょくめい)とは天皇の命令という意味で、天皇は普通の人よりも偉いという考えのもと、普通の人が使う命令という言葉は使用せずに勅命という言葉を使います。意味は命令と一緒です。
そのため歴史ある京都の中では建勲神社は比較的新しい神社となります。

建勲神社拝殿から本殿
▲拝殿から本殿を望む。

なぜ明治政府は建勲神社を建てのか?

明治政府は織田信長の功績を称えるために建勲神社を建てました。

歴史を振り返ると信長が登場する直前の日本は各地で弱肉強食の戦争が行われていました。
室町幕府だけでなく朝廷にも日本を統治する力はなくなり、各地で力をつけた戦国大名達は自分の領土を独自に統治していました。
織田信長も同じく現在の愛知県に生まれ、戦国大名として頭角を現しました。

信長は当時ヨーロッパから伝わった鉄砲を一早く自分の軍隊に導入し、他の戦国大名達の何倍もの鉄砲を用意するだけでなく組織化した軍隊を築いたことで勝利を収めました。

信長が日本を統一するまでの間には延暦寺の焼き打ち事件や本願寺との戦いなど多くの命が失われたことは事実ですが、彼の登場によって各地でバラバラだった日本は統一されて長い戦争は終わりました。
敦盛の舞石碑
▲信長が桶狭間の戦いの直前に舞った敦盛の一説の石碑がある。

時代を変えた信長の功績

また信長は市場を開くためには高い税金が課せられるという常識を廃した楽市楽座令や、関所を廃止することで人と物の流通を活発化させることで庶民の生活を豊かにしました。
またポルトガルやスペインの宣教師を受け入れることで、西洋の知識や技術を柔軟に取り入れ日本の近代化にも貢献しました。

宣教師はキリスト教の布教を目的にするだけでなく赴任した国を植民地にする目的も持ち合わせており、信長や戦国大名達が想像以上に軍事力を備えていることを母国に報告し、日本を植民地にするのは簡単ではないという手紙などが残っています。

つまり信長が強大な軍事力を持って日本を統一したことが、欧米諸国が日本を植民地することを躊躇させたのです。

明治政府はあらためて織田信長の功績を見直し、当時のアジア諸国の多くが欧米諸国の植民地になる中で日本がそれを逃れることができたのも信長の功績があるとし、大きく日本の発展に寄与したことを称えるために建勲神社を建てたのでした。

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建勲神社本殿
▲本殿

信長も自身を神様として祀らせていた。

織田信長が生きていた頃、現在の滋賀県に彼の城である安土城がありました。そして安土城の敷地内に総見寺と呼ばれるお寺があり、そのお寺では織田信長が神様として祀られていたと言われています。

当時ポルトガルからやって来た宣教師の一人であるルイス・フロイスが書き残した本の中には、信長が部下達に対して総見寺を普通のお寺と同じ様に参詣し、自身を仏様と同等に崇めることを命令したと描かれています。

信長と言えば延暦寺の焼き打ち事件や本願寺との戦いなど、神をも恐れぬ罰当たりなことを起こしたことで有名です。
これらの出来事から信長が神様や仏様の存在を信じていなかったことが推測されるですが、彼自身は部下達に自身を神格化することを求めました。

建勲神社から見える東山大文字
▲建勲神社から見える東山大文字

信長にとって役に立つ宗教の力

おそらく信長は神様や仏様の存在を信じていませんが、宗教は利用する価値があることを気づいていたのではないでしょうか?

信長の生まれた愛知県の隣にある三重県には伊勢神宮があり、今も昔も多くの人が参拝に訪れる神社です。
そして多くの人が伊勢神宮に祀られる神様を崇める一方で、伊勢神宮が参拝客によって儲かっていることを信長は知っていました。

もし部下達や多くの人々の心に信長を神様として崇める気持ちが生まれれば、信長に対して反抗する人を無くすことができます。
さらに参詣客が増えれば増えるほど信長にお金が入ってくる一石二鳥。
当時の常識を打ち破り、合理的な判断ができた信長は宗教のことも理解していたでしょう。

信長が本能寺の変で亡くなってから約500年。
信長は建勲神社で神様として祀られている状況を、あの世でどんな風に思っているのでしょうか。。。
きっと「このたわけ者が!」と参拝者を怒っていると私は思います。

建勲神社へのアクセス方法

建勲神社は歩いていける距離に電車の駅がありません。
そのため京都駅から建勲神社へ行く場合は地下鉄で北大路駅まで行った後、バスで建勲神社前駅か船岡山駅で降りて行きましょう。
(京都駅から北大路駅まで乗車時間:14分。乗車賃:260円 北大路駅から建勲神社駅までのバス乗車時間は7分。乗車賃:230円)