▲山門
善峯寺の歴史を修学旅行レポートとして
今回は善峯寺の歴史について。
善峯寺は西山山頂にある寺。
京都市街地を一望できることから天空の寺と呼ばれます。
①源算が建てた
②桂昌院による復興
▲観音堂
源算が建てた
善峯寺は平安時代の1029年。
源算という僧侶によって建てられました。
源算は有名な源信の弟子として修行を重ねた後に善峯寺を建てました。
当時は最澄の延暦寺や空海の金剛峯寺のように山の中にお寺を建てて、
町から離れた場所で厳しい修行を積むことが僧侶の理想の姿でした。
そのおかげで他の市内にあるお寺とは一味違う雰囲気を楽しむことができます。
▲観音堂
源信と源算
源信と言えば往生要集という書物を書いた人でした。
大学受験で日本史を専攻した人であれば聞いたことがある単語だと思います。
往生要集には人は死んだらどうなるのか?
人は死後に極楽に行くか地獄に行くことになっており、
どちらに行くかは生きている間の日頃の行いによって決まる
という世界観が描かれています。
源信の往生要集に影響を受けた人の中には、
鎌倉時代には南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏を唱えることで人は極楽に行くことができるという教えを広めた法然や親鸞もいました。
▲眺め
源算が天皇や貴族達に認められたきっかけ
善峯寺という名前は、後一条天皇によって名付けれらました。
当時は現代のように科学や医療技術が発達していないので、病気を治したり、天気を予想したり、お寺などの建築物を建設する技術は僧侶が持っていました。
実力のある僧侶は貴族達や天皇の病気を治したり、神様への祈りによって雨を降らせたり、貴族の出世を祈ることを依頼されていました。
そして源算も貴族達から雨乞いの依頼を受け、見事にも雨を降らせたそうです。
その功績が称えられて、当時の天皇である後一条天皇に源算の建てた寺に善峯寺という名前が与えられました。
嘘か本当かわかりませんが、祈りによって雨を降らせることは源算だけでなく、空海など有名な僧侶達にも伝説が残っています。
▲桂昌院廟
桂昌院の縁
江戸時代になると善峯寺は桂昌院(けいしょういん)という女性によって大きく発展しました。
桂昌院は江戸幕府3代目将軍の徳川家光の奥さんであり、生類憐みの令という愚かな政策を行ったことで有名な5代目将軍の徳川綱吉の母親として知られる人物です。
彼女は京都生まれだったことから、地元である京都に対して多くの恩返しをしました。
その中のひとつに善峯寺の整備のためにお金を寄付しています。
▲境内
玉の輿の語源
桂昌院は一説には「玉の輿(たまのこし)」の語源になった人とも言われています。
彼女は京都の小さな八百屋さんの娘として生まれたにも関わらず、江戸幕府3代目将軍の徳川家光の奥さんにまでなった女性でした。
当時は身分階級が明確な時代であり、将軍や貴族のお嫁さんになる女性は同じく高貴な家に生まれた女性であることが常識でした。
にもかかわらず、町の八百屋さんの娘だった桂昌院が将軍のお嫁さんになることなんてあり得ない出来事でした。
そのため桂昌院が幼い頃に玉という名前だったので、玉が神輿に乗って京都から江戸へ嫁いでいったことから「玉の輿」という言葉が生まれたと言われています。
▲境内
桂昌院のおかげで現在の善峯寺がある。
桂昌院の父親は桂昌院が生まれる前に、善峯寺に参拝して女の子の子供が欲しいと願ったそうです。
そして幸運にも桂昌院が生まれ、まさかの徳川家光の奥さんとなることとなりました。
桂昌院は自分の恵まれた人生に感謝し、父親の願いを叶えてくれた善峯寺の神様に感謝していました。
そのため桂昌院は江戸で生活しながらも、善峯寺にお金を寄付することで善峯寺の発展に寄与しました。
桂昌院のお墓は東京にありますが、彼女の遺髪を収めた塚が善峯寺にはあり、善峯寺が品のある雰囲気に包まれているのは、桂昌院のおかげかもしれません。
善峯寺へのアクセス方法
京都駅からJRで大阪方面行きの電車で向日市駅で降りた後、阪急バスの善峯寺行きのバスに乗って終点の善峯寺駅で下車後徒歩5分ほどで到着です。
バスは1時間に1本ほどしか運行していないので、バスの時刻表は必ず確認しておかないと善峯寺から帰りの際にバスがない事態にならないようにお気をつけて。
山の上に善峯寺はあるので、歩いて帰るのは現実的ではありません。。。