▲南蛮寺跡石碑
南蛮寺の歴史を修学旅行レポートとして。
今回は南蛮寺の歴史について。
南蛮寺は安土桃山時代に建てられた教会。
残念ながら現在は南蛮寺跡を説明する案内板しか残っていません。
①現在は石碑が建つのみ
②織田信長が建設を許可
③本能寺の変を目撃
④宣教師の裏の顔
⑤秀吉がぶっ壊す
▲南蛮寺跡前
イエズス会の宣教師達が南蛮寺を建てた
京都の南蛮寺は1576年に建てられました。
京都でのキリスト教の布教を目的に宣教師達と信者によって建設。
当時の京都の統治者だった織田信長が建設許可を出しましたが、
建設費用はイエズス会だけでなく、
キリスタン大名の高山重友や、キリスタンの商人達の援助によって賄われました。
建設前から既に信者が京都周辺にいた訳です。
現在は何も残っていない
京都の南蛮寺がどんな建物だったか現在は何も残っていませんが、
都の南蛮図という美術作品に南蛮寺が描かれています。
木造建築の3階建て
最上階は外に出て周辺を見渡せる構造になっています。
建物内は礼拝堂が整備されていたと伝わっており、
宣教師達が母国に送った手紙には、
西洋の教会にも劣らない立派な建築物だったと記されています。
▲本能寺跡
南蛮寺から本能寺の変を目撃した宣教師
南蛮寺から西へ徒歩5分の場所には本能寺がありました。
本能寺も現在は石碑が建つだけで当時の建物は何も残っていないのですが、
南蛮寺からすぐ近くにあったことは歩いてみると実感します。
そして南蛮寺の3階から本能寺の変が見えたらしいです!
当時の宣教師たちが母国に送った手紙が残っており、
信長に矢が刺さった瞬間も目撃したらしいです。
▲本能寺跡を示す石碑
本能寺の変の真相
南蛮寺が何も残っていないのを知りながらも、
南蛮寺跡を訪れたのは本能寺の変の真相に惹かれるからです。
明智光秀が本能寺の変を起こした理由はいくつかの説がありますが
その1つにイエズス会が光秀に指示したとする説があるみたいです。
私は明智光秀の子孫である明智憲三郎氏の本が好きで、
「「本能寺の変」は変だ! 435年目の再審請求」を読んでからは、
秀吉が黒幕だった説を支持していますが、
宣教師達が光秀を裏で操っていた説も興味深いです。
本能寺の変は色々な要因を語り合える大事件ですので、
是非とも本を読んだ方と語り合いたいですね♪
新しい説があれば教えて頂きたいです!
▲本能寺跡
織田信長が南蛮寺の建設を許可した理由
織田信長はキリスト教の布教を認めたことで知られています。
その理由はキリスト教の布教を認める代わりに
鉄砲などの武器を輸入できるからと言われています。
宣教師達も武器を売る代わりにキリスト教の布教を条件にしました。
信長にとって他の武将達よりも優れた武器を手にすることで、
戦を優位に進めることができました。
宣教師の裏の顔
宣教師たちはキリスト教の布教を目的にしていましたが、
布教活動にはお金が必要でした。
そこで宣教師は商人とタッグを組んで布教費用を賄っていました。
詳しくは「お金の流れで読む日本の歴史 元国税調査官が「古代~現代史」にガサ入れ (中経の文庫)」
という本を読んで頂きたいのですが、
武器を売ったお金は商人が大部分が手にして、
その利益の一部が宣教師に還元される仕組みでした。
この本が面白くて南蛮寺跡に行こうと思ったくらいです。笑
学校では習わない宣教師の目的を知ることができました。
他にも怖い話ですが、
優しい宣教師たちに騙されて海外に売られた日本人もたくさんいたそうです。
もしも読んだ方がいれば感想を語り合いたいです。
秀吉は伴天連追放令で弾圧
信長の後継者である秀吉は伴天連追放令でキリスト教の布教を禁止します。
実は多くの日本人が奴隷として海外に売られていることを知った秀吉は怒り爆発。
また他の武将達が武器を購入できないようにするためでもありました。
さらに宣教師の目的が実は信者を増やした後に、
日本を植民地化することだったので、
秀吉だけでなく徳川家康の時代にもキリスト教は禁止になりました。
その影響で南蛮寺は破壊されて何も残っていません。
南蛮寺跡へのアクセス方法
京都駅から地下鉄で四条駅で降りると徒歩5分で到着。
(京都駅から四条駅まで2駅。乗車時間5分。乗車賃230円。)
南蛮寺跡と書かれた石碑しかないので、食事や買い物で四条駅に寄った際についでにさっと足を伸ばす程度で良いと思います。