▲耳塚
耳塚と文禄・慶長の役の歴史を修学旅行レポートとして。
こんにちは。
今回は京都にある耳塚(みみづか)の歴史について記事にしました。
豊臣秀吉とゆかりのある豊国神社と方広寺の目の前に耳塚と呼ばれる石碑がありまして、一般的な観光雑誌で耳塚が紹介されることは少ないと思いますが、他県にお住まいの方で耳塚の存在を知っている人はいらっしゃいますでしょうか?
耳塚とはその名前が示す通り、約2万人もの人の耳や鼻が埋葬されている塚になります。
人の耳鼻が埋まっていると聞くとゾッとして非常に恐ろしいのですが、豊臣秀吉とゆかりのある遺跡になります。
かつて豊臣秀吉は日本全国を支配下に治めた後に、日本だけに留まることなく現在の中国に当たる明までも支配下に治める野望を持ち、明への通り道に位置する朝鮮半島へ侵攻しました。
学校の歴史の授業で秀吉による朝鮮侵攻である文禄・慶長の役と呼ばれる出来事を習いましたよね。
その時に日本軍の武士達が朝鮮半島で討ち取った朝鮮や明の兵士達の耳や鼻を切って持ち帰ったものが耳塚には埋葬されているのです。
▲慶長の役にて加藤清正軍が明軍に包囲された場面 wikipediaよりお借りしました。
耳塚には2万人の耳や鼻が埋まっている。
「何でそんな残酷なことを!?」と想像するだけでも恐ろしいのですが、当時の武士達は敵を討ち取った時に自分がいかに活躍したかを上司に認めて貰うために敵の首を取り、戦争が終わった後に上司である将軍に提示して恩賞を貰う習慣を持っていました。
しかし文禄・慶長の役は日本から海を渡った朝鮮半島が戦場だったために、国内と同様に敵の首を持って帰ることができませんでした。
そのため武士達は首の代わりに持ち運びしやすい耳を瓶などに詰めて持ち帰って来たそうです。。。怖すぎます。。。
そして今回はそんな恐ろしい耳塚と文禄・慶長の役の歴史について修学旅行レポートを担任の先生に提出するつもりで記事にしてみました。
▲耳塚を横から。
本当に耳塚には本当に耳が埋まっているのか?
まず耳塚は本当に文禄・慶長の役で討ち取られた約2万人もの朝鮮や明の兵士達の耳や鼻が埋葬されていると言われています。慶長2年(1597年)に秀吉によって犠牲になった方々の供養が行われまして、古墳のように盛り土がされて耳なども埋葬されました。
この供養は大々的に行われ秀吉が朝鮮を圧倒的な力で攻めたことを世の中に示す意図もあったとも言われていますし、当時の社会では戦争が終われば敗者も供養することが日本の習慣でもありました。
実際に耳塚を掘り起こして調査をしたことはありませんが、埋まっていると考えられています。
▲豊臣秀吉肖像画 wikipediaよりお借りしました。
韓国では豊臣秀吉は大悪党であると歴史の教科書にも掲載されている。
私は学校の歴史の授業や大河ドラマなどを見た結果、秀吉が文禄・慶長の役を起こした理由は自分の権力の大きさを国内だけに留まらず海外へも誇示するためだと習った記憶があります。
また秀吉の上司だった織田信長が生きていた頃に信長が日本を支配下に治めた後は中国大陸までも支配下に治める野望を持っていたと言われており、秀吉は信長の意思を受け継いだとも学校の授業かテレビで聞いた記憶があります。
私にとって秀吉の朝鮮進出についてはその程度の知識しか持っていなかったのですが、耳塚のすぐ側にある方広寺に訪れた際に耳塚の存在を初めて知る出来事がありました。
▲耳塚の案内板
方広寺を見終わって帰ろうとした時に、韓国人の観光客の方々が大きな石碑の前で写真撮影や記念撮影をしている光景を見かけたのです。
私は「何だろうあの石碑?そんな有名なものなのかな?」と興味深々の顔をして耳塚の方へ歩き出しました。
すると韓国人観光客の方々は私が近づいて来るのを見ては、スーッと去ってしまいました。
「何か悪いことしたかな?」と不思議に思いながらも、耳塚の前にある展示案内を読んだ時にその理由を理解することができました。
韓国の人達にとって豊臣秀吉による文禄・慶長の役は憎むべき歴史的大事件として知られており、韓国の学校の授業では豊臣秀吉は日本から来た残酷な侵略者として習うそうです。
なので韓国の方々にとって耳塚は日本の負の遺産として有名になっているのです。
▲耳塚には花が供えられていた。
学校の教科書には載っていない朝鮮侵攻の理由
学校の授業で文禄・慶長の役を習った時には特に何の感情も抱きませんでした。テストに出るからテスト前だけ仕方なく暗記するだけの言葉でしたが、韓国人の方々が耳塚の前で手を合わせている光景を目の当たりにすると戦国時代の話とはいえ胸が痛くなりました。
どんな理由があろうとも、他の国を侵略することは悲しみや恨みを生み出すことになり、侵略に正当な理由なんて存在しないと思います。
それでも豊臣秀吉はなぜ朝鮮進出を目指したのか?
実は歴史学においても明確な理由は判明しておらず、色々な説があるようです。
最近読んだ「東大流よみなおし日本史講義」「日本の歴史第3巻 戦国編」「本能寺の変431年目の真実」という本の中で学校の授業では習わなかった理由を知ることができました。
▲歴史本三冊
部下達の戦力や財力を削ぐため説
秀吉は日本を支配下に治めると、今度は力のある部下達が反乱を起こすことを恐れるようになりました。そこで部下達の保有戦力を削ぐため、財産を減らすために朝鮮進出を利用したとする説があります。
実際に朝鮮に軍を送った有力な武士達は何も得るものがなく、多くの犠牲とお金を失いました。
慶長の役が終わり日本に帰ってきた加藤清正という有力な武将に対して、国内で秀吉の側近として待機していた石田三成は「秀吉様のお墓にお参りするために京都へ来るように」と伝えたところ、清正は「この戦争で財産を全て使い果たしてしまったので、京都まで行くお金もありません。。。」と疲弊し切った顔で言葉を返したそうです。
▲秀吉が祀られている豊国神社参道
部下達に褒美として与える土地が国内には無いため新たな土地を求めた説
武士達が命を懸けて戦場で戦うのは、敵から奪った土地を恩賞で自分の土地として手に入れるためです。
そのため戦争で勝利を収めた将軍は、活躍に応じて部下である武士達には敵から奪った土地を与えなくてはいけません。
しかし国内を支配下に治めた秀吉にはもはや敵がいないので、常に自分の土地を拡大したいと願う武士達に与える土地は限られています。
そこで海外へ侵略することで土地を奪い、自分や部下達に土地を与えるために朝鮮進出を実施したとする説があります。
秀吉は明を支配下に治めた後は明に渡り、天皇も引き連れて移住する計画を立てていたと言われています。当時の天皇である後陽成天皇も秀吉の移住計画を聞き、具体的にどうやって行くのか船などの手配準備をしていたそうです。
▲フランシスコ・ザビエル肖像画 wikipediaよりお借りしました。
ポルトガルによる日本人奴隷の人身売買に対抗するため説。
織田信長の時代から国内ではキリスト教の布教が広がり、南蛮貿易と呼ばれるポルトガルとの貿易が大名達の間で拡大しました。
多くの大名達がポルトガルから鉄砲などの武器を輸入する代わりに、領土内でのキリスト教の布教を許可しなければならなかったので国内にキリスト教信者が増えていきました。
ポルトガル人はキリスト教を布教するために教会を建設することはもちろん学校や病院なども建設したので、信者たちは生活の質も良くなるなど多くの利益も得ることができました。
しかしその一方で人身売買と呼ばれる日本人を奴隷として海外で売りさばくことがポルトガルによって行われていました。キリスト教の信者になると良いことがあると勧誘しておきながら、黒人よりも下の身分の奴隷として日本人が世界中で売られていたのです。
これは学校の教科書では習わない事実ですが、当時に海外に留学した日本人が各地で日本人奴隷を何人も目撃したとする日記が残っていますし、キリスト教自体も布教の裏では他国を侵略する意図を隠すことなく明確に持っていました。
秀吉による欧米社会の植民地政策への対抗策
そして秀吉は日本人が奴隷にされている現状を危惧し、明を支配下に治めることでポルトガルや欧米社会にアジア大陸への脅威を感じさせることを目指したとする説があります。
実際に秀吉がフランシスコ・ザビエルが所属しているイエズス会に対して日本人の奴隷貿易を中止することを求める手紙も残っており、バテレン追放令と呼ばれる国内でのキリスト教の布教も制限する命令も出していきました。江戸時代になると隠れキリスタンや島原の乱といったキリスト教を弾圧した出来事を学校で習いましたが、弾圧をしなければならない理由もあった訳です。
だからと言って他国を侵略しても良いとはなりませんが、豊臣秀吉による文禄・慶長の役には学校の教科書では習わない理由がありそうです。
耳塚へのアクセス方法
耳塚へは京都駅からバスで行くか、電車で行く場合は京都駅から1駅先の東福寺駅で京阪電車に乗り換えて1駅先の七条駅を降りてから徒歩5分程で到着します。
耳塚の近くには観光名所の三十三間堂や秀吉とゆかりのある方広寺や豊国神社がありますので、京都駅から三十三間堂へ向かうバスに乗り三十三間堂前で降りましょう。
ちなみに私だったら京都駅から歩いて約15分ほどかけて耳塚を目指します。