▲あの鐘
方広寺の歴史を修学旅行レポート。
今回は京都にある方広寺(ほうこうじ)の歴史について。
豊臣家滅亡のきっかけとなった鐘で有名な方広寺。
国家安泰君臣豊楽の銘文にいちゃもんをつけた徳川家康。
たったこれだけで豊臣家は滅亡しました。
①豊臣秀吉が建てた
②徳川家康が破壊
③方広寺鐘銘事件
④京都大仏焼失
▲国家安康君臣豊楽
豊臣秀吉が建てた。
方広寺は豊臣秀吉によって建てられた巨大寺院。
現在は「国家安泰」「君臣豊楽」の鐘文で有名な鐘があるくらいの小さなお寺。
建設当初はお隣にある豊国神社や京都国立博物館も含む巨大な敷地。
天下統一を記念する目的で方広寺を建てられました。
奈良の大仏で有名な東大寺を超える規模を目指し。
奈良の大仏よりも大きな大仏を造り上げた結果。
秀吉が建設した大仏は高さが約20メートル。
奈良の大仏は約18メートルの高さだったそうです。
残念ながら幾度の火災により現在は残っていませんけど。
残っていたら京都の大仏として観光名所になっていたこと間違い無しです。
▲方広寺の鐘
方広寺鐘銘事件(ほうこうじ しょうめい事件)
豊臣秀吉によって方広寺は建てられたのですが。
秀吉の死後に息子の秀頼が作った釣り鐘がきっかけで豊臣家は滅亡します。
「国家安泰 君臣豊楽」という文字が鐘に彫られていたのですが。
これに徳川家康がいちゃもんをつけます。
「国家安泰」家康の家と康を離して書くことで徳川家へ呪いをかけている!
「君臣豊楽」豊臣家だけの繁栄を願う意味がある!
豊臣家が徳川家を倒して国家転覆を狙っている証拠だ!
これをきっかけにして無理やり大阪の冬の陣、夏の陣を引き起こし。
豊臣家を滅亡させることに成功したのでした。
▲豊国神社の参道
家康がどうしても豊臣家を滅ぼしたかった訳
家康はずっと豊臣家を滅ぼしたかった。
方広寺鐘銘事件をきっかけに強引に戦争に持ち込んだと言われています。
最近読んだ「お金の流れで読む戦国時代」という本の中でも、経済面で当時日本一の商業都市である大阪に拠点を持つ豊臣家を家康はずっと危険視していたと述べられていました。
関ヶ原の戦いで敗北したことから徳川家に多くの土地を奪われた豊臣家ですが、大阪の土地だけは奪われていなかったのでお金はたくさん持っていることを家康は将来に反乱を起こす存在として危険視していたのでした。
▲方広寺境内
徳川家康による徹底的な秀吉排除
大阪の陣によって豊臣家が滅亡した後。
家康は徹底的に京都から秀吉とゆかりのある建物を取り壊していきます。
巨大な大仏を含めた方広寺は大仏や建物は取り壊し。
現在は鐘と法堂だけが残る寂しいお寺となってしまいました。
最後は忍耐をし続けた家康が天下を取ったことを物語る象徴的な静けさが方広寺には漂っています。
▲方広寺の隣には秀吉を祀る豊国神社がある。
秀吉による道路整備
また秀吉は京都の町の人達が方広寺に参拝するようにと宣伝すると共に、町の道路を無理やり整備することで人の流れを作りました。
例えば源義経が弁慶と戦ったことで知られる五条大橋を取り壊して、五条大橋から南へ200m程の場所に新たに五条大橋を建てることを行いました。
元々の五条大橋は町の人が清水寺へ参拝するために使っていた橋だったのですが、それを取り壊して方広寺の方角へ行きやすくした新しい橋を建ててしまったのです。
そのため現在の五条大橋は本来の源義経と弁慶が戦った場所ではないのですが、義経と弁慶が戦っている石像が建っています。。。本当に義経と弁慶が戦った橋は現在の松原橋になります。橋の規模が全然違うんです。
わざわざ秀吉がそんなことをしたのは、当時の京都の町の人は清水寺に参拝することが多く、古くから清水寺を信仰していました。
しかし秀吉は今後は清水寺よりも自分が建てた方広寺を信仰させるために、清水寺に通じる五条大橋を外して、方広寺へと通じる新たな五条大橋を建てたのでした。
方広寺へのアクセス方法
方広寺へは京都駅からバスで向かうのが一番簡単です。
有名観光名所の三十三間堂から歩いて5分程の場所に方広寺はありますので、京都駅から三十三間堂へ向かうバスで三十三間堂前で降りると良いと思います。
ちなみに私は京都駅から歩いて約15分ほどで行くことがあります。