▲泉涌寺の仏殿
孝明天皇のお墓(後月輪東山陵)
今回は孝明天皇のお墓に行ってきました。
明治天皇の父親である孝明天皇。
激動の幕末時代において重要人物の1人です。
①岩倉具視による毒殺説
②倒幕派には邪魔な存在だった
③後宮に妹がいた
▲孝明天皇のお墓
孝明天皇は岩倉具視によって暗殺された噂あり
孝明天皇のお墓を見に行きたいと思ったのには理由がありまして、
一説には孝明天皇は岩倉具視によって暗殺されたのでは?
と本で読んで興味を持ったからです。
「幕末史」半藤一利著を読んで知りましたし、
興味ある方は是非読んで頂きたいですし、
ネットで検索しても岩倉具視が関与した説がたくさん出てきます。
詳しいことはネタバレになってしまうので割愛させて頂きますが、
この件について語り合える方が身近にいないのが残念です。
是非詳しい方に教えて頂きたいですし、語り合いたいものです♪
▲後月輪東山陵
孝明天皇は倒幕派には邪魔な存在
公式には孝明天皇は天然痘で亡くなられたが、
当時から岩倉具視や倒幕派の人間が関与してたのでは?
という噂が囁かれていたそうです。
理由の1つは孝明天皇が天然痘になったのは事実ですが、
回復の兆しが見られていたのに、急に亡くなってしまったからです。
もう1つの理由は孝明天皇は江戸幕府を頼りにしており、
徳川慶喜を信頼していたため、後の明治政府側の人間には邪魔な存在だったこと、
孝明天皇が亡くなることで利益を得る人達がたくさんいたからです。
▲泉涌寺山門
岩倉具視が関与した根拠
岩倉具視には妹がいました。
その妹は後宮に入る堀河紀子さん。
彼女は後宮に仕える女性達に指示を出すことのできる立場。
その立場を利用して孝明天皇に毒を盛ったというのが暗殺説の一つです。
岩倉具視による暗殺説には確たる証拠がないのですが、
もし本当に天皇が暗殺されたのであれば、
孝明天皇は反幕府派に利用されただけで、邪魔になったら始末されてしまったことになります。
▲二条城
開国に大反対だった孝明天皇
アメリカのペリーが来日したことで、江戸幕府は長年続けてきた鎖国体制を辞めて開国することを決めたことを学校で習いました。
幕府としては苦渋の決断であり、可能ならば鎖国体制を維持したかった。
しかしアメリカの開国要請に反対し、アメリカと武力衝突することになれば勝ち目が無いことも幕府は理解していました。
同時期にお隣の中国がアヘン戦争でイギリスに大敗していることを知っていた幕府は、アメリカの開国要請に応じるしか方法がないと判断したのです。
しかし海外の情勢を知らない当時の一般市民は、開国する幕府のことを弱腰と批判して鎖国維持を希望しました。
さらに一般市民だけでなく当時の天皇だった孝明天皇が鎖国維持を望んだことで、幕府に対する不満が高まることになりました。
孝明天皇が開国反対を表明したことで、鎖国維持を希望する人達が孝明天皇の元に集まり、また単純に江戸幕府体制に不満を持つ人達も孝明天皇を支持し、天皇が住む京都には反幕府を願う人達が全国から集まるようになりました。
ここから開国派の江戸幕府 VS 鎖国派の天皇や反幕府派による幕末の戦いが始まりました。
▲泉涌寺入口
孝明天皇は幕府を倒すことを希望していたのか?
孝明天皇は開国反対の立場でしたが、その理由は外国人が大嫌いで外国人が日本の土地に足を踏み入れることが許せないという、非常に感情的な理由だったと言われています。
幕府を批判しますが反幕府派のリーダーとして幕府を倒すことは望んでいませんでした。
孝明天皇の希望は幕府を説得し、幕府自らが開国することを撤回することでした。反幕府派の人達のリーダーとして、幕府と戦うことなど望んでいません。
江戸幕府体制が今までのように続くことにも不満はなく、ただただ外国人が大嫌いなので開国だけはして欲しくないだけでした。
実際に江戸幕府派で京都の治安を維持する役目を担った京都守護職のリーダーだった松平容保のことをとても信頼していましたし、公武合体(こうぶ合体)と呼ばれる朝廷と幕府が手を結ぶことが理想だと考えていました。
そのため孝明天皇が推進する公武合体を望まない反幕府派の人達は、次第に孝明天皇の存在が邪魔になっていきました。
▲法堂
最終的には孝明天皇も開国を許可した。
開国反対だった孝明天皇でしたが、欧米諸国と一度合意した条約を破棄することの難しさや、破棄した後で欧米諸国が武力攻撃してくるかもしれないリスクを考えて開国を許可しました。
日米修好通商条約の約束通り兵庫港を開くことの許可を孝明天皇から貰うために、徳川慶喜が京都を訪れた時のエピソードは少し有名です。
京都から兵庫県の兵庫港は近いので、孝明天皇は兵庫港の開港に大反対していました。
しかし現実的に条約を破棄することなど不可能であると考える徳川慶喜は、もし開港を許可しないのならば朝廷だけで欧米諸国と交渉して下さい。
条約破棄するなら兵庫港から欧米諸国の軍隊があっという間に京都へ攻めにくることになるでしょうが、幕府は何もしません。自分達だけで彼らを説得して下さい。と朝廷を脅しました。
そして慶喜は許可を貰えないのなら、切腹しますと見栄を張って粘りました。その結果、孝明天皇もついに開国を許可したのでした。
その瞬間、朝廷と幕府の方針は開国することで一致し、対立する理由がなくなりました。
日本は正式に開国することを天皇も認めたのです。
▲京都御所 ここで慶喜は天皇を説得させた。
朝廷と幕府が協力して日本を良くすることができた
これからは幕府と朝廷が手を結び、共に日本の将来を考えることができるはずでした。
しかし、実際には学校の授業で習った通り、幕府と朝廷や反幕府派は戦いました。
学校の授業を思い出すと、明治時代になってから日本が近代化を推進したので幕府が鎖国派だったような気がします。
しかし実際には幕府は開国派で、初めは薩摩藩や長州藩は鎖国派でした。
さらに幕府と朝廷が開国することで合意したにも関わらず、戊申戦争は始まり、幕府に勝利した明治政府は幕府が進めようとした開国を推進しました。
幕府=鎖国 薩長同盟=開国 という印象を持っていると、頭が混乱してきますが最終的に開国するのなら、幕府の開国方針に協力すれば良かったのに。。。と思います。
泉涌寺へのアクセス方法
京都駅から泉涌寺へは電車で行きます。
京都駅からJR奈良線に乗り1駅先前の東福寺駅から徒歩20分ほど。
東福寺駅からはずっと坂道を登り続けないといけないので、歩きやすい靴を選ぶことをオススメします。