▲宝筐院の石碑
宝筐院の歴史を修学旅行レポートにて。
こんにちは。
今回は京都にある宝筐院の歴史について記事にしました。
宝筐院(ほうきょういん)は観光名所の嵐山エリアに位置し、観光雑誌などでは紅葉の名所として掲載されることの多いお寺です。
嵐山エリアには世界遺産にも登録されている天龍寺を筆頭に紅葉の美しいお寺が数多くありますが、宝筐院はこのエリアではマイナーなお寺。
そのため他県にお住まいの方で宝筐院の存在を知っている方は、なかなかの「京都好き」だと思います。
しかし宝筐院が紅葉の名所であることは知っていても、宝筐院の歴史について知っている人はさらに少ないのではないでしょうか?
そこで今回は宝筐院の歴史について修学旅行レポートを学校の担任の先生に提出つもりで記事にしてみました。
▲足利義詮と楠正行のお墓が並んでいる。
宝筐院に眠る二人の英雄
宝筐院には南北朝時代に活躍した楠正行と足利義詮のお墓が並んでいることで知られています。
高校で日本史の授業を受けた人は二人の名前を聞いたことがあるかもしれませんが、多くの人にとっては誰だ?という印象かもしれません。
楠正行(くすのきまさつら)は楠正成(くすのきまさしげ)の息子であり、足利義詮(あしかがよしあきら)は初代室町幕府将軍の足利尊氏(たかうじ)の息子であり二代目室町幕府将軍です。
▲宝筐院の境内 紅葉の時期には真っ赤に染まる。
二人は敵対関係。
鎌倉時代と室町時代の間にある南北朝時代には天皇が二人存在するという異常事態が続き、二人の天皇が対立して北朝と南朝に分れて戦争をしていた時代でした。
北朝側には足利義詮が、南朝側に楠正行がいて二人は敵対関係にありました。
学校の歴史の授業で習った通り南北朝時代は南朝が敗れることで終焉を迎え、楠正行も南朝側の武士達を従えて北朝側の武士達に挑みましたが戦場で命を落としました。
そんな敵対関係にあったにも関わらず、足利義詮は楠正行の生き方に感銘を受け、自分の死後は楠正行のお墓の隣に祀って欲しいと願いました。そのため宝筐院には敵対関係だった二人のお墓が並んで埋葬されているのです。
▲二人の側には精忠と彫られた石碑がある。
楠正成と忠義。
楠正行のことを知るには彼の父親である楠正成(まさしげ)のことを知る必要があります。
楠正成は現在では知名度があまりない人物ですが、第二次世界大戦の前までは最も人気のある歴史上の人物でした。
第二次世界大戦などの戦時中だけでなく、江戸時代の幕末の頃には明治維新を起こした維新志士達からも絶大な支持を受けていたと言われています。
現代では坂本龍馬や織田信長が人気のある人物ですよね。
楠正成は南北朝時代において南朝の天皇である後醍醐天皇のもとで活躍し、最後には北朝側の足利尊氏との戦いに敗れて戦死した人物です。そして楠正成は当時の他の武士達が持っていない特別な信念を持っていたことが後世の人々に影響を与えました。
▲宝筐院の門前
楠正成が人々の尊敬を集めた理由
楠正成が持っていた信念、それは天皇こそが日本を統治する存在であり、武士はあくまでも天皇をお守りする立場にあるという姿勢でした。
当時の武士たちは一所懸命と呼ばれる、自分の土地を命がけで守り抜くことが最も重要であるという価値観でしたので、天皇の存在よりも自分の土地を誰が保証してくれるのかに関心がありました。
そのため南朝か北朝のどちらに味方するかを決める基準は、どちらが勝利するのかです。戦争に勝利すれば新たな自分の土地が恩賞として貰えますが、負ければ自分の土地は勝者に奪われてしまいます。
しかし楠正成は一貫して南朝の後醍醐天皇こそが正統性のある天皇であるとして、自分の土地のことよりも武士として天皇を守ることに命を懸けました。
北朝側が優勢になろうとも決して南朝側に降参することなく戦い切りました。その他の武士達は戦況が負けそうになると敵に寝返ることも普通です。寝返って活躍すれば自分の土地を守るだけなく拡大することもできるからです。
▲欽忠碑
なぜ楠正成のことを現代人は知らないのか?
この楠正成の忠義に多くの人は好感を持ちました。
忠義とは主君や国家に対し真心を尽くして仕えることです。
自分の利益よりも天皇のために命を懸け、最後には負けることが分かっていながらも戦死したことから日本人には何か心が惹かれるものがありました。江戸時代末期の幕末には江戸幕府を倒して明治時代を築いた人達の間で尊敬されていましたし、戦時中には戦闘機に乗って機体ごと敵に突っ込む特攻隊には楠正成の家紋が使われるなど後世に影響を与えました。
現代の私達が楠正成のことをあまり知らないのは、戦後教育において楠正成は戦前の悪しき日本社会を連想させるとして学校でも取り上げられることがなくなったためです。
しかし戦争中以前の江戸時代の頃も楠正成は多くの人々から尊敬を集めた人物ですし、楠正成が悪者だった訳ではありません。
楠正成の生き方を美化して国民を天皇を護るため、国を護ために命を懸けることを正当化するために政府が楠正成を利用したことが悪いのであって、楠正成は自分の信念に従って生きただけで罪はありません。
▲左が足利家の家紋 右が楠家の家紋
楠正行の生き方
楠正成は足利尊氏と現在の神戸市に位置する湊川で最後の戦いに挑み戦死しました。
この戦いのために京都から湊川に向かう途中で、正成は当時11歳の少年だった正行を戦に参加せずに故郷に帰ることを告げました。
正成は湊川の戦いで負けることを予期していたので、自分の息子である正行に対して戦場で一緒に死ぬのではなく、しばらく故郷で身を隠して力を蓄えた後に自分の意思を受け継いで足利家を倒して欲しいと伝えました。
正行は11歳ながらも涙ながらに武士として一緒に戦場で死ぬことを正成に訴えましたが、最後は正成の言う通り母の待つ故郷へ帰ったのでした。
この正成と正行の別れの場面は桜井の別れと言われて、戦前は多くの人が知る歴史の名場面となりました。桜井は現在の大阪府の桜井辺りだと言われています。
▲楠正行の最後の戦い 四条畷の戦いを描いた絵
父との約束は果たせず
そして正行は父の遺言の通り力を蓄えた22歳の頃に北朝に対して出陣します。序盤こそ北朝軍を打ち破り勝利したものの、最後には正行も戦死してしまいました。
この正行の姿勢に北朝側の足利尊氏の息子であり、二代目将軍となった足利義詮は敵ながら敬意を抱き、自分の死後は正行が眠る宝筐院に祀って欲しいと言い残しました。
当時の宝筐院は夢窓疎石の弟子である黙庵によって整備されており、黙庵は楠正行と親交があり戦場で戦死した正行の遺体を埋葬していましたが、黙庵は足利義詮とも交流があったことから義詮は黙庵から正行のことを聞いていました。ちなみに宝筐院の名前は足利義詮の法号になります。
▲二人のお墓
歴史の授業から消えた人物。
当時は北朝側の武士の間にも、自分の利益のことを考えずに天皇に忠義を尽くす楠親子に対して尊敬の気持ちを抱く者もいました。
もともとは足利尊氏と後醍醐天皇は共に鎌倉幕府を倒した間柄でしたが、後醍醐天皇が実施した建武の新政と呼ばれる新政治が武士を貴族の下位に置き、武士が持つ土地を奪って貴族達に分け与えることに尊氏が反旗を翻したことで南北朝の戦乱が起きました。
そのために天皇を相手に戦争を起こしたという少しの罪の意識と、その天皇のもとで玉砕覚悟で向かってくる楠親子に対して敵ながらも敬意を抱いたのではないでしょうか?
▲宝筐院の門
現在の宝筐院は紅葉の季節以外は訪れる人も少なく、境内はとても静かな場所となっています。
南北朝時代を生きた楠正成や正行は決して悪者ではなく、むしろ多くの国民から尊敬されていました。しかし戦後教育以降はその存在を知られることも少なくなり、人知れずこの地で眠っています。
学校では習わない歴史を知るために宝筐院を訪れてみてはいかがでしょうか?
宝筐院へのアクセス方法
京都駅から宝筐院へはJR嵯峨野線で嵯峨嵐山駅で降りた後、駅から徒歩15分ほどで到着です。乗車時間:12分 乗車賃:240円
嵐山は京都の中でも人気スポットですので、渡月橋を渡ってから世界遺産の天龍寺や竹林、紅葉の名所として知られる常寂光寺、二尊院や大覚寺など美しいお寺をたくさん巡ることができます。