京都の歴史修学旅行レポート

京都守護職の歴史|新撰組を管理する街の治安を守る組織

金戒光明寺京都守護職の看板

金戒光明寺の桜
▲金戒光明寺山門

京都守護職の歴史を修学旅行レポートとして

今回は京都守護職の歴史について記事にしました。

京都守護職は江戸時代末期に京都の治安を守る組織。
現在の金戒光明寺に設置されました。
新撰組の上司にあたる幕府の組織としても知られています。

京都守護職の歴史

①幕末の京都を守るため
②新撰組を管理
③会津藩が担当
④最期は悲惨な歴史

金戒光明寺山門
▲山門

京都守護職の役割

京都守護職は京都の治安を守るために江戸幕府によって設立された組織。

京都の治安を守る組織は京都守護職が作られる前にもありましたが。
従来からある組織だけでは手に負えないくらい京都の治安が悪化したため、
新たに京都守護職という組織を作りました。

ちなみに以前から京都所司代や京都町奉行、京都見回役と呼ばれる組織があります。

金戒光明寺参道桜
▲境内

新撰組は京都守護職が管轄する立場だった

幕末と言えば新撰組の存在も人気です。
新撰組は京都守護職から給料を貰っていた組織になりますので。
京都守護職が新撰組の上司にあたる組織と聞くと
京都守護職の存在を見直しますよね。笑

近藤勇は定期的に京都守護職に訪れては
仕事の報告を行ったり、新たな命令を受けていました。

京都守護職の命令の下で新撰組も治安を守るために活躍しました。

金戒光明寺境内
▲鐘

京都守護職と新撰組の敵は後の明治政府を作った人達

そして京都守護職や新撰組の敵は後に明治政府を作る人達です。

主に長州藩や薩摩藩を中心とした反幕府の人達が敵。
木戸孝允や高杉晋作、坂本龍馬や中岡慎太郎が敵です。

彼らは江戸幕府を倒して新しい政権を作ろうとしていました。
幕府の視点でみれば国家転覆を狙うテロリストみたいな存在です。

京都の街では幕府と親しい公家や商人達が暗殺されており、
長州藩が裏で糸を引いていたり、
幕府に恨みを持つ人達がシンパシーを感じて独自に行っていたりと
意見が違う人は葬り去れば良いかのような暴力が蔓延る事態になっていたのです。

金戒光明寺山門と桜
▲金戒光明寺は桜の名所でもある。

誰も京都守護職をしたくなかった

本来であれば京都守護職の役目は彦根藩(現在の滋賀県)が担うべきでした。
彦根藩のお城である彦根城は京都から江戸に向かって反乱軍が来た時のために
防御する役目を持って建てられたこともあり、京都守護職を任せるには適任でした。

しかし彦根藩のトップだった井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたばかり。
彦根藩が混乱していたこともあり。
会津藩(現在の福島県)に白羽の矢が立ちます。

会津藩の設立者である保科正之は2代目将軍の徳川秀忠の弟。
他の藩と比べても幕府とは親しい関係にあるだけでなく、
軍事的にも戦力がしっかりしていることが選ばれた理由です。

しかし会津藩はペリーが来日した浦賀と北海道地域の警備を既に担当しており、
追加で京都の治安を維持するだけのお金がありませんでした。
また会津藩に大きな人的被害が発生することが予想されたので
会津藩の人達は京都守護職に就任することに大反対。
もし就任すれば自ら破滅の道へ進むことになると断固拒否しました。

金戒光明寺桜
▲桜

会津家訓十五か条

しかし会津藩には初代藩主、保科正之が策定したある掟がありました。
保科正之が遺した掟は「会津家訓十五か条」と呼ばれ、
第1条に「会津藩は将軍家を守るために存在する。もし藩主が将軍家を裏切ることがあれば、家臣は藩主に決して従ってはならない」とあります。

つまり何があろうとも幕府を守ることが会津藩の使命であり、
将軍家の言うことは絶対であるということです。

この教えを破る訳にはいかない。
当時の会津藩主の松平容保は京都守護職の就任を受諾しました。

その時に多くの会津藩の人達は会津藩の命運はもはや尽きたと覚悟しました。
そして残念ながら実際にその通りになってしまうのでした。

池田屋
▲池田屋事件跡は居酒屋チェーンのはなの舞の店舗となっています。

大政奉還により京都守護職は解散

京都守護職は大政奉還まで続き、解散します。
反幕府勢力との戦いに疲弊した会津藩でしたが。
大政奉還後の戊申戦争で壊滅的に新政府軍に蹂躙されます。

京都守護職の際に反幕府側から恨まれた会津藩。
特に長州藩が徹底的に戊申戦争で会津藩を攻撃。

幕府が降参したにも関わらず新政府軍は戦争を辞めませんでした。
会津藩は再建できないほど壊滅的な被害を受けることになります。
金戒光明寺には会津藩の人達を弔うお墓があり、
今でも彼らのこと思う人達から献花が絶えません。

会津藩士のお墓
▲会津藩士達のお墓

戊申戦争によって会津藩は大きな被害を受けました。

学校の教科書では江戸城の無血開城として、東京で戦争が行われることが回避されたことを習いましたので、江戸幕府から明治政府への移行は平和に行われたのかと思っていました。
しかし実際には多くの命が失われており、特に京都守護職に就いた会津藩は大きな被害を受けました。

新政府軍は東京を通過した後に、そのまま東北地方に向けて進軍します。
その目的は幕府側の会津藩を滅ぼすため。
新政府軍を構成する長州藩は、京都で京都守護職や新撰組に大きな被害を受けていました。
そのため長州藩の人達は会津藩のことを深く憎んでいました。
彼らはその怒りを忘れないために、足に履く下駄の裏に会津藩と書いて、足で会津藩を踏んむということをしていたと言われています。

会津墓地から京都市内を望む
▲会津藩墓地から夕日の京都市内を眺める

江戸幕府は悪で明治政府は正義だったのか?

アメリカのペリーが来日した時に、江戸幕府はアメリカと戦うことは非現実的であり、開国することを選択しました。
それは中国がイギリスとアヘン戦争で敗北し、イギリスの植民地にされていくことを見ていたので、近代化を遂げた欧米諸国には力で勝てないことをきちんと知っていたからです。

しかし日本の世論は開国反対でした。
特に当時の天皇だった孝明天皇は外国が大嫌いで、外国人が日本の土地に足を踏み入れるが許せませんでした。
天皇が幕府に反対していることを聞きつけた反開国派の人達が後に明治政府を設立することになるのですが、よくよく考えてみると明治政府がやったことは反開国どころか、より近代化を求めて欧米と貿易も積極的に行いました。
そうであれば幕府に反対などせずに、最初から幕府の開国方針を支持すれば良かったとも思えます。
いったい何のために多くの命が失われたのかわかりません。
会津藩士墓地
▲会津藩士達が眠る墓地

勝てば官軍

勝った側を正義とするならば、江戸幕府は悪で明治政府が正義でしょう。
しかし明治維新の結果を振り返ってみると、本当に明治政府は正義なのでしょうか?
明治政府による近代化政策によって現在の日本があるのは事実です。
明治政府を否定したところで今が変わる訳ではないでしょう。
だけど、明治政府は決して正義の存在ではなかった気がするのです。

明治政府が設立された後も、長州藩の会津藩に対する恨みは収まらず、会津藩は土地を奪われて青森県の下北半島へ移住させられて南部藩という新しい藩をつくりました。
しかし青森県の最北端だったこともあり、農作物が育たず多くの人が空腹で命を落とす事態になったそうです。
いったい会津藩の人達がどんな悪い事をしたというのか?
彼は自分達が悪だなんて決して思っていなかったでしょう。
彼らにとっては新政府軍こそが悪だったはずです。。。

金戒光明寺へのアクセス方法

京都駅から市バスに乗ると約30分ほどで到着です。
(京都駅から岡崎道まで乗車時間:25分。乗車賃:230円)