▲本堂
三十三間堂の歴史を修学旅行レポートにて。
今回は三十三間堂の歴史について記事にしました。
1,000体の千手観音像が並ぶ三十三間堂。
平清盛が建てたお寺です。
①写真撮影禁止
②平清盛が建てた
③正式名称:蓮華王院
▲外壁
平清盛が建てた
三十三間堂は平清盛によって平安時代の1164年に建てられました。
当時の天皇だった後白河天皇が寺を建設したいという要望に平清盛が応え、
1,000体もの仏像が並ぶ豪華な寺院として建設されました。
現代に生きる私でも莫大な財産が無ければ作ることができないことがわかる。
平家の権力がどれだけ大きいものだったかを感じざるを得ない。
▲夕方
三十三間堂は正式名は蓮華王院と呼ぶ。
三十三間堂は正式名称を蓮華王院と呼び、三十三間堂はあくまでも通称です。
なぜ三十三間堂と呼ばれるかと言いますと、
三十三間堂は訪れるとわかりますが本堂が南北に長い建物となっており、建物を支える柱がたくさん立っています。
三十三間堂はその名前の通り、柱と柱の間の柱間が33あることからその名前が付けられるようになりました。
▲後白河天皇のお墓
なぜ平清盛は太政大臣にまで出世できたのか?
学校の教科書では平清盛が太政大臣になったとサラッと記載されて、
次に源頼朝が登場して鎌倉幕府が設立されて鎌倉時代へと突入します。
平安時代から鎌倉時代にかけて貴族が主役の時代から武士の時代へと変わります。
しかし平安時代において武士の身分は貴族の家来、ボディーガード扱いであり決して高い身分ではありませんでした。
侍(さむらい)という呼び名も「侍らう(さぶらう)」からきています。
「侍らう(さぶらう)」とは貴族などの高い身分の人に仕えるという意味のある言葉です。
そのため平安時代初期の武士達は、身分の高い貴族に雇われる家来として貴族から給料を貰って生活する者が多かったのです。
しかし平安時代も時が経つにつれて、武士の力と存在感がだんだんと増していきます。
▲平清盛肖像画 wikipediaよりお借りしました。
税金の徴収に武士の力が必要になるにつれて武士の地位も向上
貴族の身分では無い日本に住む多くの人々は国に対して税金を納める義務がありましたが、次第に税金を払うことを拒む者が増えていきました。
現代においてはみんなで税金を納めることで、そのお金で学校や道路ができたり、医療費が安くなったりと税金を納める人にも見返りがありますが、当時は税金を納めるだけで何も見返りはありません。税金を納めたところで貴族達が優雅で豪華な生活をするだけです。
何も見返りもなくお金だけが貴族達に奪われていくことに従う人はいません。しかし税金を納める人が減少するほど貴族達は優雅な生活を送ることはできません。
そこで貴族達は武士を雇って税金を納めない人には罰を与えるために、武力によって強引にでも人々に税金を納めさせるために武士を利用するようになりました。
貴族達にとって武力に長けた武士達は必要不可欠な存在、武士を利用しなければ世の中を支配できない時代になっていたのです。
▲三十三間堂の本堂
清盛の父、忠盛の頃に朝廷から信頼を得る。
そうした中で平清盛の父親に当たる平忠盛は武力に長けた武士として存在感を高め、朝廷からも重宝される武士となりました。
そして平忠盛の息子である平清盛は父親の地位を引き継ぎ、最初から朝廷から信頼される武士として活躍をします。
そして貴族達の権力争いや後白河天皇と崇徳上皇による権力争いとなった保元の乱、平治の乱において勝者側に就いていた平清盛には朝廷から高い役職が与えられました。
貴族達にとっても力の強い武士は自分の味方にしておきたい思惑も重なり、平清盛は後白河天皇にも気に入られて太政大臣の役職まで登り詰めることができたのでした。
さらに平清盛は自分の娘を高倉天皇の妻にすることにも成功し、次の天皇となった安徳天皇も生まれました。
武力だけでなく平安時代の藤原氏と同じように天皇家と血縁関係まで結びました。
▲三十三間堂では内部は写真撮影禁止。
平清盛の栄華も長くは続かなかった。
しかし平清盛の繁栄は長くは続きませんでした。
後白河天皇から信頼されて太政大臣にまで出世した清盛でしたが、後白河天皇は最後には源頼朝に対して平氏を追討することを命じ、平清盛の息子達や子孫、幼い安徳天皇も壇ノ浦戦いで滅亡することとなりました。
三十三間堂へのアクセス方法
京都駅から三十三間堂へ行くにはバスに乗るのが迷うことのない方法です。(下車駅:三十三間堂前駅 乗車時間:約7分 乗車賃:230円)
京都駅前にはバスターミナルがあり、行き先毎にバス停が並んでいますので「三十三間堂行き」と書かれたバス停からバスに乗りましょう。