京都の歴史修学旅行レポート

比叡山延暦寺の焼き打ち事件の修学旅行レポートを提出します。

延暦寺文殊楼

延暦寺の根本中堂
▲延暦寺の根本中堂

延暦寺の焼き打ち事件について修学旅行レポート風に提出します。

こんにちは。
今回は織田信長が引き起こした比叡山延暦寺の焼き打ち事件について記事にしました。
延暦寺の焼き打ち事件と言えば、学校の歴史の授業でも習いましたよね。
戦国時代を代表する武将どころか、日本史を代表する織田信長によって多くの僧侶や比叡山に暮らす人々の命が奪われた衝撃的な事件です。

織田信長と言えば、桶狭間の戦いや近代的に組織化された鉄砲部隊を戦争に導入して次々と敵を倒し、新しい知識や世界の動きに興味を示してキリスト教の布教を許可し、豊臣秀吉など実力のある優秀な人材は家柄に関係なく活躍の舞台を用意するカリスマ的なリーダーであり、かっこいい男、男の中の男などなど織田信長が好きな人は日本には多いと思います。

織田信長肖像画
▲織田信長肖像画 wikipediaよりお借りしました。

その一方で信長には残忍で恐ろしい顔も合わせ持つことでも有名です。
仏教の教えに従って修行に務める僧侶達を比叡山ごと焼き打ちにしたり、大阪では浄土真宗を開いた親鸞の意思を受け継ぐ本願寺や三重県の長島でも多くの浄土真宗の信者達の命を奪いました。

そして信長の残忍性を危険視した部下の明智光秀によって、本能寺の変が起きたのでした。
明智光秀が本能寺の変を起こした要因のひとつに信長が延暦寺を焼き打ちにしたことが影響していると、子供の頃から学校の授業や大河ドラマを見て私は覚えました。

そこで今回はあらためて延暦寺の焼き打ち事件について、修学旅行のレポートを担任の先生に提出するつもりで記事を書いてみました。
延暦寺根本中堂
▲延暦寺根本中堂へ続く道

なぜ信長は延暦寺を焼き打ちにしたのか?

一言でいうなら、それは延暦寺が信長に敵対したからです。
織田信長は現在の愛知県から京都へと支配地域を拡大していき、そのまま日本全土を支配下に置くことを目標に掲げていました。

そのため全国の武将や武士達は信長派か反信長派かの立場を決めなければなりません。反信長派の立場を選ぶなら信長と戦争をすることになります。
そのため信長が京都へ進出してからは、全国で信長と反信長派による戦争が勃発することになりました。
延暦寺文殊楼
▲文殊楼

延暦寺は信長と敵対することを選んだ。

さて。
ここで武士の身分ではないけども、信長から味方の立場になることを要求されていた勢力があります。それが比叡山延暦寺でした。

当時の延暦寺は静かに仏教の修行に務める僧侶だけがいる施設ではなく、僧侶と言えども武器を装備し、中には武士にも負けない腕前を持つ僧侶がたくさんいるような場所でした。

そのため信長は延暦寺に対して味方の立場を取るように求めていましたが、延暦寺は反信長の立場を選び、反信長派を延暦寺に匿ったり援助をすることで信長は戦争中に危機に瀕したこともありました。
出町柳駅から望む比叡山
▲出町柳駅前から見える比叡山

信長による徹底的な焼き打ち

そうした経緯もあり、信長は延暦寺を焼き打ちにすることを決めます。
当時の延暦寺は比叡山全体に僧侶だけでなく多くの人達も生活していましたが、信長軍は深夜に比叡山を取り囲み、誰も比叡山から逃げ出せないようにしてから火をかけます。

もちろん火の手から逃げるために山から下りてくる人達がたくさんいましたが、信長はたとえ女の人、子供であろうと例外なく命を奪いました。
そのため焼き打ちが終わった後には、山のように命を奪われた人々の亡骸が積み重なっていたと言われています。

この信長による焼き打ち事件は神様の存在すらも恐れない信長の残虐性を示す印象的な出来事となりました。この出来事によって延暦寺は衰退することとなり、仏教勢力の影響力も大きく失われます。

子供の頃に初めて延暦寺の焼き打ち事件の内容を知った時は、かっこいい織田信長のイメージに恐ろしい一面が加わり、それから信長のことを好きと口に出さなくなった記憶があります。
お金の流れで読む戦国時代

延暦寺はまじめに仏教の修行なんかしていなかった説。

しかし最近「お金の流れで見る戦国時代」という本を読んだのですが、この本の中で延暦寺について面白い記述がありました。

ざっくり言うと、当時の延暦寺はただのお寺ではなく、お金儲けもするし、軍隊を備えた強力な組織でもあり、世の中の人は延暦寺の存在を迷惑がっており、もし信長が焼き打ち事件を引き起こさなければ延暦寺フィナンシャルグループが現代に存在していたかもしれないというものでした。(笑)

スポンサードリンク

延暦寺大講堂
▲延暦寺大講堂

当時の延暦寺はお金を異常に高い金利で貸し出す悪徳金融機関だった。

当時の延暦寺は現在でいうところのプロミスやアコムのような消費者金融機関に近い事業も行っていました。

当時のお寺は荘園と呼ばれる土地を全国各地に所有しており、人々はお寺に土地や財産を寄付すると死後に極楽に行くことができる、仏様に救われると考えていたことから多く土地が自然とお寺に集まるようになっていました。

ただお寺が土地を所有しているだけなら良かったのですが、多くのお寺は所有する土地や財産を利用してお金儲けをするようになりました。
嵯峨野の田園風景
▲嵯峨野の田園風景

土地と一言でいっても、その土地に畑や田んぼがあれば収穫物もお寺のものになりますし、その土地で営業するお店があればそのお店の利益もお寺のものになり、土地を持っていない人にその土地を貸すと、貸した人から毎月土地代を徴収することもできます。

延暦寺はお寺の人が生活するために必要最低限以上の収入を手にしたことで、余ったお金や財産を利用してさらなる金儲けをするようになった訳です。

お金が無くて困っている人にお金を貸して、返す時には貸した金額に利子を上乗せして返させて利子で儲ける。これは現在の銀行や消費者金融と同じことをしています。

そして借りたお金を返せない人がいれば、武装した僧侶がお金の取りたてに押し寄せました。現在でいうヤクザと一緒です。
延暦寺から見える琵琶湖
▲延暦寺から見える琵琶湖

延暦寺はアコムやプロミスを凌ぐ高金利

現在では消費者金融でお金を借りた場合、プロミスやアコムでは金利は年に10%程度ですが、当時の延暦寺は年利50~80%の高い金利でお金を貸していました。

そのため借りたお金を返せない人も続出し、お金を返せない人が持っていた土地はどんどん延暦寺が手に入れていくの繰り返しでお寺が所有する土地は増えていく一方でした。

そのため織田信長が京都に進出した頃には日本の土地の半分をお寺が所有していたそうで、当時のお寺は現在で言う巨大な金融機関のような存在だったのです。

そのため信長や世の中の多くの人にとっても延暦寺はただのお寺ではなく、全国を支配下に置くためには延暦寺の経済力も排除する必要がありました。そして信長に対して敵を匿ったことをきっかけに信長は延暦寺を焼き打ちにしたことで延暦寺は所有している土地の多くを失い、権力を低下していくことになります。
根本中堂

延暦寺フィナンシャルグループは現実的にできていたかもしれない。

その代わりに信長が延暦寺の土地を奪うことで、世の中のお金の流れが大きく変わりました。
もし信長によって焼き打ち事件が起きていなければ、日本の土地の多くを延暦寺が所有したまま金融事業をしていた可能性は現実的に思えますし、延暦寺フィナンシャルグループが存在していた可能性があるのです。

信長によって宗教の影響力が小さくなったことで新しい時代を迎えたのです。もちろん信長の行為は残虐なのですが、当時の社会にはメリットもあった訳です。そういうことを考えると延暦寺焼き打ち事件に対するイメージが少し変わってしまいました。

学校の授業では時間がないかもしれませんが、このような現代の社会の仕組みにも通じる話を知ると歴史に興味を持てました。
延暦寺戒壇院
▲延暦寺戒壇院

延暦寺に火をかけたのは信長が初めてではなかった。

また延暦寺の存在を問題視していたのは何も信長だけではなく、平安時代の白河天皇や室町幕府の6代目将軍の足利義教も手を焼いていました。

特に足利義教は信長が焼き打ち事件を起こす140年前に、延暦寺を焼き打ちにしたことで知られています。理由は幕府の言うことも聞かず、その頃も高利貸しを行っており我慢ならずに火をかけました。
信長だけでなく、平安時代の頃から延暦寺が人々から恨まれている側面もあったことが伺えます。

もちろんどんな理由があっても、人の命を奪う行為は正当化されないと思いますが、延暦寺の焼き打ち事件は信長の極悪非道な行為だっただけとは言えないことを学びました。

延暦寺へのアクセス方法

京都都からバスで向かうのが一番便利だと思います。
でも車があれば車が一番良いです。延暦寺は比叡山全体が境内になっていまして、自由に移動できる車のほうが移動しやすいです。

また延暦寺は山の上にあることから、延暦寺と一緒にどこかを巡るのは時間が足りないかと思います。