▲明智光秀の首塚
京都にある明智光秀の首塚
こんにちは。
今回は京都にある明智光秀の首塚に行ってきました。
明智光秀(あけち みつひで)と言えば、日本人でその名前を知らない人はいないでしょう。
明智光秀は戦国武将の織田信長が討たれた本能寺の変を起こした犯人でした。
明智光秀と織田信長は部下と上司の関係性にあり、光秀は信長の側近として信長から最も厚い信頼を得ていたのですが、上司である信長を不意打ちしてしまいました。
天下統一を目前に控えていた信長を討った光秀は、一気に戦国時代の覇者へと躍り出たのです。
しかし本能寺の変が起きてから11日後、明智光秀は同じく信長の部下だった豊臣秀吉にあっけなく討たれてしまいました。
そのため当時の世間の人達は光秀のことを馬鹿するだけでなく、せっかく信長が光秀の実力を評価して身分を上げたのに、恩を仇で返したことに光秀の人としての評価も大きく下げることとなりました。
さて。
京都には豊臣秀吉によって討たれた明智光秀の首が埋葬されている場所がありまして、明智光秀の首塚と呼ばれています。
今回は明智光秀の首塚について記事にしてみました。
▲首塚前を流れる白川
首塚を訪れる人はとても少ない
光秀の首塚の存在はあまり知られておらず、観光客が訪れている光景を見たことがありません。
しかし場所としては観光名所の平安神宮から歩いて10分ほどの場所にあり、平安神宮から知恩院や八坂神社、清水寺を巡る多くの観光客が通る道路の近くにあります。
光秀の首塚は和菓子屋の餅寅さんが管理されており、江戸時代から代々引き継がれてきたそうです。餅寅さんのすぐ横の細い道に入ると、すぐに首塚があります、
普通の住宅が密集した場所にひっそりと佇んでいます。
▲餅寅さんのすぐ横の道から首塚へ。
なぜこんな場所に光秀の首塚があるのか?
明智光秀は学校の歴史の授業で習った通り、豊臣秀吉によって討たれてしまいました。
そして光秀の遺体は首塚のある場所からほど近い、粟田口という場所で磔にされました。
粟田口(あわたくち)は東から京都の町へ来る際には必ず通る場所でした。
そして現代の感覚では理解し難いですが、当時は罪を犯した罪人は処罰された後、遺体は磔にされて多くの人が通る場所にさらされ、見せしめにされることがありました。
勝者である秀吉は、上司である織田信長を討った光秀を重大な犯罪人として処罰したのです。
そして磔にされた光秀の遺体は後日に埋葬され、粟田口からほど近い首塚の地が光秀の埋葬地として選ばれたと伝わっています。
普通は丁寧にお墓に埋葬されるのですが、光秀は秀吉によって犯罪人にされたことから、手厚く埋葬することは許されなかったのでした。
▲ひっそりと佇む首塚
明智光秀の最期
本能寺の変から11日後に光秀は豊臣秀吉と京都の山崎という場所で戦いました。
その結果は学校の歴史の授業でも習った通り、光秀は秀吉にあっけなく敗れます。
光秀は秀吉軍に勝てないことがわかると、戦いの最中に自分の城がある滋賀県の坂本城へ逃げることを決断します。
坂本城には光秀の家族が待っているので、秀吉に負けたとなれば一族もろとも処罰されることが予想されるため、光秀は家族だけでも逃がすためか、それとも家族と共に死を選ぶために自分の城のある坂本へ戻ろうとしました。
現在の京都市の南西方向のお隣にある長岡京にある勝竜寺に光秀軍は立て籠もって秀吉軍と戦っていましたが、勝てる見込みが無くなったことから光秀は深夜に側近の5,6名を連れて密かに脱出しました。
▲勝竜寺跡
勝竜寺から坂本城へ
現在でも長岡京市から滋賀県の坂本までは車で約1時間はかかる距離です。
光秀は秀吉軍に見つからないように、回り道をしながら坂本城に向かいます。
しかし道中に小栗栖と呼ばれる地域の竹やぶを通っている時に、木の陰に隠れていた地元の農民達に襲撃されてしまいます。
そして不運にも一人の農民が持つ竹槍が光秀の脇腹に刺さり、光秀は深手を負って動けなくなってしまいます。武士の身分にも関わらず、戦いに関して素人の農民にあっさり深手を負わされた光秀は、秀吉軍から逃げ切ることはできないと諦めました。
そしてその場で切腹し、光秀の首は秀吉のもとに届けられました。
▲光秀の首塚の案内板
もう一つの光秀の最期
一般的には竹やぶで光秀が農民に討たれた話が広まっていますが、別のパターンも伝わっています。
勝竜寺から脱出した光秀は、坂本城へ辿り着く前に秀吉軍に討たれました。
しかし討たれた場所は先程の小栗栖ではなくて、現在の京都市の山科エリアか醍醐寺近くで秀吉軍に討たれたそうです。
秀吉と光秀の戦いが終わった後に、秀吉軍が光秀軍の誰を討つことが出来たか確認するために遺体を確認していると、偶然にも光秀の首があったそうです。
当時は写真もテレビも無い時代ですので、光秀がどんな顔なのかは実際に会った人にしかわかりません。
そのため光秀を討った秀吉軍の兵士は、それが光秀だと知らずに討ってしまったのです。
それもそれで何だか悲しい気がしますが。。。
▲光秀の首塚
明智光秀の子孫が辿り着いた本能寺の変の真相
光秀の首塚を訪れると、明智光秀の末裔と名乗る明智憲三郎さんの著書「本能寺の変 431年目の真実」の記事が飾ってありました。
明智憲三郎さんの本はベストセラーにもなったことで知られています。
私もワクワクしながら読ませて頂きました。
一般的には光秀の動機は、信長のことを恨んでいたとする怨念説、自分が天下を取りたいと願った出世欲がメジャーなところでしょうか。
憲三郎さんの主張はその二つではなく、光秀は自分の子供達と家族、そして一族の平和と繁栄を守るために本能寺の変を起こしたと結論付けます。
そして本能寺の変が起きることを光秀だけでなく、徳川家康も豊臣秀吉も事前に知っていたとするストーリーに胸がワクワクしました。
憲三郎さんが辿り着いた本能寺の変の真相であってほしいと本当に願っています。
明智光秀首塚へのアクセス方法
明智光秀の首塚は観光名所の平安神宮から歩いて10分ほどの場所にあります。
そのため平安神宮を訪れる際に、ついでに足を延ばしてみるのが良いと思います。
京都駅から平安神宮行きのバスに乗るか、地下鉄で東山駅で降りてから徒歩10分ほどで到着です。
東山三条駅の側には白川という川が流れており、駅から白川沿いを川の流れと同じ方向に歩くと、餅寅という名前の和菓子屋さんが見えます。
餅寅さんのすぐ横にある細い道に入るとすぐに明智光秀の首塚があります。