京都の歴史修学旅行レポート

比叡山延暦寺の歴史を修学旅行レポートにて提出致します。

日吉大社奥宮

延暦寺の根本中堂▲延暦寺の根本中堂

延暦寺の歴史を修学旅行レポートにて。

こんにちは。
今回は延暦寺の歴史について記事にしました。

京都府と滋賀県の県境に位置する比叡山の山頂に延暦寺(えんりゃくじ)はあります。延暦寺と言えば、学校の歴史の教科書にも登場するお寺です。
平安時代に最澄(さいちょう)という僧侶が建てたお寺であり、戦国時代には織田信長によって焼き打ちにされたお寺として知られています。

学校の歴史の授業で登場するお寺と言えば、奈良の大仏で有名な東大寺(とうだいじ)や織田信長が部下の明智光秀に討たれた本能寺(ほんのうじ)、そして延暦寺の名前が記憶に残っている人が多いのではないでしょうか?

今回は延暦寺の歴史について学校の担任の先生に提出つもりで記事にしてみました。

最澄肖像画
▲最澄の肖像画 Wikipediaよりお借りしました。

誰が延暦寺を建てのか?

延暦寺は平安時代に最澄という僧侶によって建てられました。
最澄は現在の滋賀県の坂本で生まれ、奈良県の東大寺で正式に僧侶になりました。

当時は僧侶になりたい人は東大寺で許可を得ないといけませんでした。自分で勝手に僧侶を名乗ることは犯罪行為になるため最澄も滋賀県から奈良の東大寺で修行の日々を送り、正式に僧侶になると生まれ故郷である坂本に帰り、坂本の地にそびえる比叡山に籠って厳しい修行を送るようになりました。

最澄は比叡山に籠っていた時に、延暦寺の前身となる一乗止観院という名前のお寺を建てました。これが後に現在の延暦寺へと発展を遂げることとなりました。
延暦寺根本中堂
▲根本中堂への参道

平安京遷都により延暦寺も発展。

最澄が奈良の都を離れて比叡山に籠っていた時、当時の天皇は794年に都を奈良から京都の平安京に遷した桓武天皇(かんむ天皇)でした。

桓武天皇は東大寺を筆頭に奈良の仏教界が政治に口出ししてくることに不満を持っていました。当時の仏教界は人々を悩みや苦しみを救うことなど微塵も考えずに、自分達の出世やお金儲けのことしか考えていない腐敗した集団となっており、桓武天皇は何とか彼らと距離を置きたいと考えるようになっていました。

自分が理想とする政治を実施したいにも関わらず仏教界が色々と介入してきて何もできない。桓武天皇は強引にも都を奈良から京都へ遷すことで奈良の仏教界との関係を断ち切ることにしました。
そして天皇は新しい仏教の形を模索する中で、比叡山で修業をしていた最澄に注目します。

人里を離れてストイックに修行を積む最澄の姿に可能性を感じた桓武天皇は最澄を重要な地位に置きます。最澄や空海など当時の優秀な僧侶や学者を当時の中国である唐に留学させ、日本へ帰国後は平安京を仏教の力で守る役割を延暦寺に与えることで国家としても延暦寺と最澄を重要視することで延暦寺の地位も向上しました。

日吉大社奥宮
▲日吉大社の奥宮

滋賀県から歴史は始まった。

延暦寺は古都京都の文化遺産に登録されたことで世界遺産となっていますが、歴史は滋賀県から始まりました。

延暦寺を建てた最澄は滋賀県出身であり、延暦寺ができる前から最澄も含めて比叡山の麓に暮らす人々は、比叡山には神様が住んでいると考えていました。そのために比叡山の滋賀県側には神様を祀る神社として日吉大社が造られて、地域に住む人々から祀られてきました。

そして最澄は比叡山の麓にある坂本という町で生まれた人間ですので、幼い頃から比叡山に神様がいることを信じ、町の人と一緒に比叡山を敬い、山と共に生活をしてきました。
その経験があるからこそ、最澄は延暦寺を比叡山に建てることにしたのでした。
日吉大社奥宮から見える琵琶湖
▲日吉大社奥宮から見える琵琶湖

比叡山の神様が住む日吉大社

比叡山と言えば、京都市内から見える姿を思い浮かべる人が多いと思いますが、滋賀県側には現在も日吉大社が残っており、自然に囲まれた美しい神社となっています。

個人的には京都の有名な神社は観光客向けに過度に演出されていたりするので、日吉大社にはより原始的な神社が漂っていておススメです。

延暦寺文殊楼
▲延暦寺文殊楼

延暦寺が焼き打ちされた理由。

腐敗した仏教界を離れて新しい仏教の形を模索した最澄の延暦寺でしたが、残念ながら時代が経つにつれて延暦寺も自分達の出世とお金儲けだけを考える僧侶の巣窟となっていきました。

延暦寺は私出挙(しすいこ)と呼ばれる仕組みによって大儲けをするようになりました。
出挙とはお米の種を農民に貸し出して、収穫の時期になったら収穫されたお米の一部を受け取る仕組みです。もちろん貸した種と同じ量を返すのではなく、何倍もの量を返す必要がありました。現在のお金の貸し借りに利子が付くのと同じ仕組みです。

出挙をしたい農民にとってはお米の種を借りたとしても、一つの種からは何倍ものお米が取れるので、無事に収穫期を迎えることができればそこまで負担は少なかったと言われています。また昨年が不作だった場合は、翌年に田植えをできるほどの種を取れなかった農民にとって出挙は大変有り難い仕組みでした。
出挙の仕組み自体は貧しい農民を支援するために考案されたのですが、延暦寺は次第に無理やりにでも農民に出挙をさせてお金儲けに走るようになりました。
延暦寺戒壇院
▲延暦寺の戒壇院

お寺であることを忘れた延暦寺

さらにお金を儲けた延暦寺は京都の町でお金を貸す金融業も営むようになりました。

学校の教科書に登場する土倉と呼ばれる業者の多くは背後に延暦寺が絡んでいました。出挙や信者達から得たお金を利用して、都市で商人などにお金を貸し、高い利息を設定してお金儲けを行いました。
もし借りたお金を返済できない人が現れた際は武装した僧侶がその人の家に押しかけ、お金が返せないならその人の土地や財産を根こそぎ奪っていきました。そして奪った土地はさらに高い利息で人に貸すことでお金を儲けることに利用しました。

そのため戦国時代の頃には日本の多くの土地を延暦寺が所有するような状態となり、お寺と言えどもお金や土地を貸すことでお金儲けをする巨大な組織となりました。
現在でいう三菱東京UFJフィナンシャルグループや三井住友フィナンシャルグループのような巨大な金融会社のような存在となり、多くの人にとって邪魔な存在となっていました。

織田信長肖像画
▲織田信長肖像画 Wikipediaよりお借りしました。

残酷でも嬉しい出来事だった延暦寺焼き打ち事件!?

そこへ登場したのが戦国時代の織田信長です。
信長は延暦寺が多くの権利を持ちお金儲けをしていることを知り、自分が日本を統治するためには延暦寺が邪魔な存在であることを理解しました。

そして信長と敵対していた浅井氏や朝倉氏を延暦寺が匿ったことを理由に延暦寺を焼き打ちにしました。この事件によって延暦寺が持っていた土地は信長に没収され、延暦寺は劇的に弱体化していくこととなり、信長や世の中の人にとっては嬉しい出来事となりました。

焼け野原となった延暦寺はしばらく復興することができませんでしたが、信長の次に天下を取った豊臣秀吉の時代になると再建を許され復興することができました。
延暦寺の根本中堂
▲根本中堂

天国で最澄は何を思う。。。

鎌倉時代には鎌倉新仏教と呼ばれる宗派が設立されました。法然(ほうねん)が浄土宗、親鸞(しんらん)は浄土真宗、栄西(えいさい)は臨済宗、道元(どうげん)は曹洞宗、日蓮は法華経(または日蓮宗)を設立しましたが、彼らは全員若い頃に比叡山延暦寺で仏教を学んでいます。そして延暦寺の僧侶達の生活と自分が理想とする仏教の姿が大きく違うことに幻滅し、延暦寺を去る決断をして歴史に名を残す人物にまで成長しました。

奈良の腐敗した仏教界に幻滅して奈良を離れた最澄は、天国で自分の死後の延暦寺の歩みを見てどんな気持ちでいるのでしょうか?きっと悲しんでいるに違いありません。

延暦寺へのアクセス方法

京都駅から延暦寺へはバスで行くのが良いと思います。
延暦寺は比叡山の山頂にお寺がありますので、右往左往しながら山道を車で登る必要があります。
京都駅から延暦寺東塔までは約1時間 乗車賃は770円になります。

延暦寺は最澄が建てた根本中堂のある東塔エリアと弟子達が建てた西塔エリア、横川エリアで構成されていますが、各エリアの移動はさらにバスで移動する必要があり、歩くと3,40分程かかりますので延暦寺を全て観光するには一日コースになります。

そのため思いつきで延暦寺を訪れると後悔すると思います。京都の他のスポットも観光したい人は延暦寺以外だけでスケジュールを立てて、延暦寺を観光する場合は一日延暦寺を観光するつもりで行くことをおススメします。
京都市内から見える比叡山
▲京都市内から見える比叡山