▲豊国廟の五輪塔
豊国廟の歴史|豊臣秀吉のお墓
今回は豊国廟に行ってきました。
豊国廟(ほうこくびょう)は豊臣秀吉のお墓。
秀吉の遺言により京都にお墓があります。
①階段が辛すぎる
②秀吉の遺言
③秀吉の理由
④家康による破壊
▲頂上までの階段
階段は長くて角度が急過ぎる
豊国廟の歴史を語る前にどうしても言いたいことがあります。
とにかく階段が辛すぎる!
階段が長くて急こう配過ぎます。
お年寄りの方は絶対に頂上まで辿り着けません。
途中で諦めようかと思いました。笑
頂上まで531段もあるそうです。
体力に自信の無い方。
足腰の悪い高齢者の方は手すりも無いので諦めて下さい。
▲拝殿
秀吉の遺言によりこの場所がお墓となった。
豊国廟がこの地にある理由は秀吉の遺言によります。
豊国廟のある山は阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)という立派な名前で。
秀吉は阿弥陀ヶ峰の頂上に埋葬されることを望みました。
秀吉と言えば大阪城の印象を強く思っていたので。
てっきり大阪にお墓があると思っていました。
▲中間地点にある唐門
なぜ秀吉はこの場所を選んだのか?
現在では秀吉が建てた建物はあまり残っていませんが、秀吉が生きていた頃の豊国廟辺りには秀吉が建てた建物がたくさんありました。
現在の京都国立博物館や豊国神社が建っている土地には秀吉が建てた奈良の大仏よりも大きな大仏がある巨大寺院がありました。
また現在の智積院のある土地には秀吉の息子だった鶴松の死を弔うために祥雲寺という豪華なお寺を建てるなど、秀吉にとって豊国廟のあるエリアは深い縁のある土地でした。
そのため自分が亡くなった際には、この近くを見下ろす場所に位置する阿弥陀ヶ峰に自分のお墓を作ることを遺言したのでした。
▲中間地点から頂上までの階段
徳川家康による破壊
豊臣家を滅ぼした徳川家康は秀吉とゆかりのある建物を破壊しています。
秀吉のお墓である豊国廟も破壊され、豊国廟へ通じる道を塞ぐように別の神社も建てられて、破壊だけでなく秀吉とは関係のない建物が再建されました。
徳川家康と言えば、我慢強くてあまり戦いを好まない平和なイメージを持っていたのですが、お墓まで破壊するほど秀吉に対して怒りを持っていたのでしょう。
また豊臣家が滅亡した後も秀吉を支持する人達がいたため、将来の自分の地位を脅かす存在が現れないように徹底的に秀吉の記憶を人々から消すようにしました。
▲頂上の五輪塔
歴史は勝者によって作られる
家康が築いた江戸時代は秀吉を倒してできたので、秀吉を評価することは禁止された時代でした。
しかし明治時代は江戸幕府を倒してできたので、秀吉の功績が再評価されるようになります。そのおかげで破壊された秀吉のお墓をきちんと立て直すことになりました。
つまり現在の豊国廟は明治時代に整備されたものになります。
歴史は勝者が作るという言葉がありますが、家康が秀吉に勝利したことで秀吉を歴史から消し、関ヶ原の戦いに負けた薩摩や長州藩が江戸幕府を倒して明治政府をつくると秀吉の功績を評価して江戸幕府の記憶を消し去る。
豊国廟は勝者が歴史を作ることが体言されています。
明治時代になると、豊国廟を復興させる流れになり、現在の頂上に石塔が建設されました。
元々は現在の位置ではなく、山の中腹地点に秀吉のお墓があったと言われています。
また復興する際に地中から壺に収められた秀吉の遺骨が発見され、現在の石塔の下へ埋葬されました。
▲頂上の木々の隙間から見える京都市内の景色
豊国廟を見終わった後には何もやる気が起きない
私にとって豊国廟の階段はとてもつらかったです。
翌日はもう足が筋肉痛で大変でした。登りも辛いのですが、下りのほうが大変でした。
登りとは違う筋肉を使い果たしましたね。笑
普段使わない筋肉だからか途中で足がプルプル震え出してしまいました。
何とか帰ってきても、もう動けませんでした。
もしも観光で豊国廟に行こうと思っている方は他の場所に行けないと思います。(^^;)
体力は空っぽになります。
無理な旅行計画にはお気を付けください。
豊国廟へのアクセス方法
京都駅から豊国廟へはバスで京都国立博物館・三十三間堂前で降りてから歩いて向かいます。
京都国立博物館前から東を見ると妙法院というお寺が突き当りに見えます。
妙法院の左手(北側)より豊国廟へ通じる登坂がありますので、その道をひたすら行き止まりまで進むと豊国廟へ辿り着きます。
つまり豊国廟の階段を登る前から登り坂で体力を消耗してしまうのです。
(京都駅から国立博物館前まで。乗車時間:7分。乗車賃:230円)