京都の歴史修学旅行レポート

京都白峯神宮の歴史|最恐の怨霊から球技の神様へ

白峯神宮鳥居

白峯神宮石碑
▲石碑

白峯神宮の歴史|修学旅行レポート

今回は白峯神宮の歴史について記事にしました。

白峯神宮は崇徳天皇を祀る神社。
崇徳天皇は日本史上で最も恐れられた怨霊として有名です。

白峯神宮の歴史

①崇徳天皇を祀る
②明治政府が建てた
③今は球技の神様

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白峯神宮の鳥居
▲黒鳥居

最恐の怨霊、崇徳天皇を祀る

白峯神宮は明治政府が建てた神社。
崇徳天皇が祀られています。

崇徳天皇は平安時代の保元の乱の敗者。
保元の乱で敗れた後に現在の香川県へ追放されて。
そのまま香川県で亡くなりました。

崇徳天皇は死ぬ間際までこの世を恨み。
死後は地獄からこの世を呪い続けると言い放って亡くなったので。
当時から怨霊として人々に恐れられてきた存在です。

崇徳天皇怨霊
▲怨霊となった崇徳天皇

なぜ白峯神宮を建てた

白峯神宮は幕末の頃に朝廷が建てることを計画し、明治政府によって完成を迎えました。
平安時代末期に亡くなった崇徳天皇ですが。
明治時代になって京都へ帰ることを許されました。

明治政府はなぜ崇徳天皇を祀ることにしたのか?
理由の1つは江戸幕府を倒すことを願うためです。

白峯神宮が建つ頃は新政府が江戸幕府側の会津藩や東北地方と戦争中。
平安時代から人々から恐れられてきた崇徳天皇を味方につけて。
幕府が滅ぶことを祈願しました。

白峯神宮石碑
▲境内の石碑

天皇の地位を上げるため

明治政府によって天皇を祀る神社が急に建てられるようになります。
理由は江戸幕府を倒した後に天皇がトップの存在にしたい思惑がありました。

薩長を中心に幕府を倒した明治政府は自分達が実質的に日本を支配するのですが。
表向きは天皇をトップにすることで国民をまとめることを選びます。

その象徴として明治政府は天皇を祀る神社を建てます。
京都では白峯神宮、平安神宮は明治政府が建てた神社。
どちらも天皇が祀られています。

白峯神宮サッカーの神様
▲たくさんのボールが奉納されている。

現在は球技全般、特にサッカーの神様として人気

白峯神宮には怨霊として恐れられた崇徳天皇が祀られているのですが。
最近では球技の神様として人気があります。笑

白峯神宮のある土地は神社が建つ前は蹴鞠の上手い飛鳥井家の土地だったことから。
現在では球技やサッカー、スポーツをする人にご利益あり。
部活動に励む学生やプロスポーツ選手も必勝祈願で参拝に訪れる神社となっています。

白峯神宮鳥居
▲白峯神宮の外観

なぜ保元の乱はおきたのか?

学校の授業ではとにかく保元の乱と平治の乱が教科書で太字で書かれており、テストで出るから保元の乱の勝者と敗者を機械的に暗記したのですが、そもそもなんで保元の乱はおきたのでしょうか?

保元の乱は後白河天皇と崇徳上皇派による権力争いであり、源氏や平氏といった武士達が世の中の主役に踊り立った出来事だと習った記憶があります。では後白河天皇と崇徳上皇は何が原因で対立したのでしょうか?
崇徳天皇家系図

もし現代だったらベッキー不倫騒動以上のスキャンダルがきっかけ

後白河天皇と崇徳上皇は兄弟ですが、二人の曽祖父である白河天皇に原因がありました。現代では非常識ですが、天皇や貴族や武士などの位の高い人には妻が何人もいることが常識となっていました。

なぜなら優れた人の子孫は絶やすことなく残すことが重要だと考えられていたからです。そのため白河天皇だけでなく、孫の後白河天皇も崇徳天皇も奥さんは複数いました。

ある時に白河天皇は一人の女の子を側において可愛がっていました。いづれはその女の子を自分の子供の妻にする予定だったと言われていますが、その女の子が成長して大人になると白河天皇は自らその子と肉体関係を持つに至りました。

白峯神宮本殿
▲白峯神宮本殿

そこまでの話なら当時の社会ではよくある話だったのですが、白河天皇はその娘を自分の孫である鳥羽天皇、つまり後白河天皇と崇徳天皇の父親の奥さんにしてしまいました。

それだけでも「えっ!?そんなのあり?(^^;)」と驚いてしまうのですが、さらに白河天皇はその女性が正式に鳥羽天皇の妻になってからもその女性と肉体関係を続けてしまいまして、ついには子供までできてしまいました。

しかし世間的にはその子供は鳥羽天皇とその女性の子供として認識されていたのですが、鳥羽天皇はその子供が自分の子供でなく、曽祖父の子供であることを知っていました。

そのため鳥羽天皇はその子を曽祖父の子供だから「叔父子」と呼んで全く可愛がることはありませんでした。そしてその叔父子こそが崇徳天皇なのでした。
白峯神宮拝殿
▲白峯神宮はサッカーの神様としても信仰されている。

悪いのは白河天皇の女癖

世間的には崇徳天皇は鳥羽天皇の長男という位置付けなので、鳥羽天皇の次の天皇になりました。しかし鳥羽天皇はそのことに不満を持っており、崇徳天皇の次の天皇には本当の自分の子供に継がせたいと思っていました。

そのため曽祖父の白河天皇が亡くなったタイミングで鳥羽天皇が行動に出ます。崇徳天皇を天皇の位から外して、自分の子供である近衛天皇を天皇にしました。
さらに近衛天皇の次は後白河天皇とその息子である二条天皇に位を継がせることを決めたので、崇徳天皇の子供は天皇になることがなくなりました。

崇徳天皇は自分の子供を次の天皇にしたいと思っていたので鳥羽天皇のやり方に大きな不満を持ちます。ここに貴族の藤原家の権力争いも加わり、後白河天皇派と崇徳天皇派による誰が次の天皇になるかを争う保元の乱が勃発したのでした。

結果は学校の授業で習った通り、後白河天皇が勝利を収めました。
後白河天皇派には平清盛と源義朝がいました。これが保元の乱がおきた理由になります。
白峯神宮の鳥居
▲一の鳥居

讃岐(現在の香川県)で崇徳天皇が亡くなると後白河天皇周辺で不吉なことが起こり始める。

保元の乱に敗れた武士や貴族達は死刑や左遷を言い渡され、崇徳天皇は四国の香川県に追放されたまま、一度も京都に戻ることなく亡くなりました。
しかし崇徳天皇が亡くなると京都では不吉なことが起こりました。

後白河天皇の側にいる人が次々と亡くなったり、飢饉や都で大火災が起きるなど不幸が続きました。そのため世間の人達は崇徳天皇が怨霊となって人々を苦しめているに違いないと、崇徳天皇の存在を恐ろしく感じるようになりました。

崇徳天皇の怨霊を最も恐れたのは保元の乱の勝者である後白河天皇だったので、すぐさま崇徳天皇の怨霊を鎮めるために神社を建設したり祈禱などを行いました。香川で亡くなった崇徳天皇のお墓も国がお金をかけて整備までしました。これにより崇徳天皇の怨霊の存在が世間に強く印象に残りました。
崇徳天皇怨霊
▲崇徳天皇の怨霊 wikipediaよりお借りしました。

江戸時代になると大々的に怨霊として有名になる。

現在のように日本史上最悪の怨霊と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからと言われています。
江戸時代になると徳川家康の強固な江戸幕府が設立されたことで戦争が減り、世の中が平和になったことで多くの庶民が趣味や娯楽を楽しめるようになりました。

そうした楽しみとして歌舞伎や狂言や浮世絵などの絵画や物語などが普及し、その中で崇徳天皇が怨霊として世の中を恐怖に落とし入れる物語が流行りました。

有名なエピソードとして、香川県に追放された崇徳天皇は罪を許して貰うため、反省の意味も込めて、仏教の経典を写経して京都のお寺に納めて欲しいと朝廷に願いました。しかし朝廷はそれを受け取ることなく崇徳天皇に突き返します。

これに崇徳天皇は怒り、自分の舌を噛み切るとその血によって自分は大魔王となって人々を苦しめることを書き出しました。また自分が死んだ後はあの世から朝廷を恨み続け、不吉な出来事を起こし続けてやると誓いました。

その日から崇徳天皇は髪や爪を切る事を止めて、妖怪の天狗となって怨霊となったのでした。
そのため現代で言うところのホラー映画や怪談話のような形で人々の間で語り継がれ、ある意味多くの人に楽しまれたとも言えるのです。

怨霊とは何か
▲怨霊とは何か

実際の崇徳天皇は讃岐でどんな生活を送っていたのか?

最近「怨霊とは何か」という本を読んだのですが、この本の中で崇徳天皇の怨霊のことについて記載がありました。
ざっくり言うと、実際の崇徳天皇は香川県に追放された後は静かな生活を送っていたようです。

崇徳天皇は怨霊として有名ですが、一方で当時から歌人としての才能に溢れた人として有名であり、多くの歌が現在まで残っています。
そして香川の地で残した歌の中には、恨んでいるような言葉を使った歌が無いそうです。
都へ戻りたいという気持ちを表した歌は残っているのですが、死後に世の中を恨み続けるというような表現が存在しないそうです。

また自分の血で書いた手紙や文章も残っていないことから、崇徳天皇を怨霊として祀り上げたのは崇徳天皇の派閥だった人達が復帰するために流した噂だったのではないかということでした。

白峯神宮へのアクセス方法

京都都から市営地下鉄で今出川駅で降りた後、徒歩で約10分ほどで着くことができます。

白峯神宮を見終わった後は、今出川駅まで戻って京都御所や足利義満が建てた相国寺、また今出川駅から歩いて15分ほどで世界遺産の下鴨神社まで足を伸ばすことをおススメです。