京都の歴史修学旅行レポート

京都守護職の歴史を修学旅行レポートとして提出いたします。

金戒光明寺京都守護職の看板

金戒光明寺京都守護職の看板
▲金戒光明寺にある京都守護職の看板

京都守護職の歴史を修学旅行レポートとして

こんにちは。
今回は京都守護職の歴史について記事にしました。

京都守護職(京都しゅごしょく)とは江戸時代末期に京都の治安を守っていた組織の名前です。現代の警察のような組織になります。
京都守護職という単語は高校の日本史の教科書にも出てきたと思うので、高校で日本史を専攻した人なら聞いたことがあるかもしれません。

あるいは幕末を舞台にした大河ドラマや漫画に必ず登場する新撰組(しんせん組)が所属していた組織だったことから聞いたことがある人もいるかもしれません。

今回は京都守護職が置かれていた金戒光明寺に行きましたので、京都守護職の歴史を修学旅行レポートとして学校の担任の先生に提出するつもりで記事にしてみました。

金戒光明寺山門
▲金戒光明寺山門

京都守護職の役割

京都守護職は京都の治安を守るために江戸幕府によって設立された組織です。

ただし京都の治安を守る組織には、京都所司代や京都町奉行、京都見回役と呼ばれる組織が整備されていたのですがアメリカのペリーが黒船で来日して以降、江戸幕府に反発する勢力が京都に集結して幕府関係者の命を奪う事件が多発したことで、警備する人の人数が不足して新たに治安を守る組織が必要とされたことから京都守護職が新設されたのでした。

しかし京都守護職が設立されても京都の治安を維持するためには人員は不足したままで、京都守護職は新撰組を雇うことで戦力を賄いました。
つまり新選組は江戸幕府側の立場なので、薩長同盟を結んで明治維新を達成した人達とは敵対関係にありました。

金戒光明寺城壁
▲城壁は結構高く造られている。

京都守護職、新撰組にとっての敵は誰だったのか?

江戸幕府の組織である京都守護職と、京都守護職から給料を貰っていた新撰組が京都の治安を守るために戦っていた敵とは誰だったのか?

敵は薩長同盟を仲介した坂本龍馬や、龍馬の出身地である土佐藩(現在の高知県)や薩長の薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)の人達でした。
後に明治政府を築いた人達が江戸幕府にとっては敵だったのです。

金戒光明寺境内
▲境内からは京都市内が見える。

なぜ江戸幕府は取り締まる必要があったのか?

学校の授業で習う通り、江戸幕府は薩長同盟を中心とした明治政府によって倒されました。
結果だけ聞けば、江戸幕府が「悪」で明治政府が「正義」だと思っていました。
ただ当時の日本を統治し、治安を守っていたのは江戸幕府です。
約200年も続いてきた国家体制をひっくり返そうとする人達を国家が取り締まるのは当然です。

さらに学校の授業では習いませんが、当時の反幕府勢力のやったことは大変残酷で激しいものでした。
京都に集結した彼らは、幕府と親しい公家や商人の家に夜な夜な押し入って無残にも命を奪い続ける方法を取りました。
とても文章にするのは恐ろしいことを彼らはしました。命を奪った人の一部を次に命を奪う予定の人の家の前に残して脅迫を迫り、その家にいる家族全ての人が犠牲になりました。
はっきり言って現代のテロリストと同じです。

そんな大変な状況になっていたので、幕府としても京都の治安維持のために力で対抗できる組織、京都守護職を新設せざる得ないのでした。

金戒光明寺山門と桜
▲金戒光明寺は桜の名所でもある。

京都守護職を担った会津藩の苦しみ

京都守護職を設立するにあたり、幕府は誰にその役目を指名するか迷いました。
本来であればその役目は彦根藩(現在の滋賀県)が担うべきだったのですが見送られます。
彦根藩のお城である彦根城(最近はゆるキャラのひこにゃんで有名)は京都から江戸に向かって反乱軍が来た時のために防御する役目を持っているのですが、彦根藩のトップだった井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたばかりで藩が混乱していたのです。

そこで白羽の矢が立ったのが会津藩(現在の福島県)です。
会津藩の設立者の保科正之は2代目将軍の徳川秀忠の弟だったこともあり、幕府とは親しい関係にあるだけでなく、軍事的にも戦力がしっかりしていることが選ばれた理由です。

ただし会津藩はペリーが来日した浦賀と北海道地域の警備を担当しており、追加で京都の治安を維持するだけのお金がありませんでした。また会津藩に大きな人的被害が発生することも目に見えていました。
そのため会津藩の人達は京都守護職に就任することに大反対し、もし就任すれば自ら破滅の道へ進むことになると断固拒否しました。
金戒光明寺桜
▲桜と山門

会津家訓十五か条

しかし会津藩には初代藩主である保科正之が策定したある掟がありました。
保科正之が遺した掟は「会津家訓十五か条」と呼ばれ、第1条に「会津藩は将軍家を守るために存在する。もし藩主が将軍家を裏切ることがあれば、家臣は藩主に決して従ってはならない」とあります。
つまり何があろうとも幕府を守ることが会津藩の使命であり、将軍家の言うことは絶対であるということです。

そのため当時の会津藩トップの松平容保は京都守護職の就任を受諾しました。
その時に多くの会津藩の人達は会津藩の命運はもはや尽きたと覚悟しました。そして残念ながら実際にその通りになってしまうのでした。

池田屋
▲池田屋事件跡は居酒屋チェーンのはなの舞の店舗となっています。

京都守護職と新撰組

京都にやってきた会津藩は金戒光明寺に陣地を置き、京都治安維持の任務に就きました。
しかし京都の状況は厳しいもので人員が足りない状況でした。

そんな中で、近藤勇を筆頭に京都治安維持に参加したいと懇願してきたのが新撰組でした。
新選組は元々は東京から京都へ用事のあった将軍のボディーガードとしてやってきたのですが、京都で一旗揚げようと決意して東京に帰らずに京都に残っていたところでした。
松平容保は新撰組の隊員達の剣の実力を認めて、自分達の戦力として京都守護職の組織の一部に採用しました。

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蛤御門
▲蛤御門

池田屋事件で新撰組の名は世に知れ渡った。

幕末を描く大河ドラマには必ず登場するのが新撰組です。
その活躍は多くの日本人が知っている通り、新撰組は京都で躍動します。

有名な池田屋事件では、新撰組が事前に長州藩や土佐藩の人達が京都の町に火をつけて、大火災を起こした混乱に乗じて天皇を京都から連れ出すといったとんでもない計画をキャッチし、池田屋で反幕府勢力が計画を練っているところに突入して未然に計画を防ぎました。

また長州藩が京都へ軍隊で侵入し、天皇が住む京都御所に向けて大砲を打ち込んだ禁門の変(蛤御門の変)では新撰組は最前線で戦い、長州藩を京都から撃退することに貢献しました。
しかし坂本龍馬の仲介によって薩長同盟が締結されたことで、幕府は次第に力を失っていきました。
京都で行われた鳥羽・伏見の戦いを始まりに幕府軍と新政府軍の戦いである戊申戦争が始まり、結果はご存知の通り幕府軍は敗北して新政府軍が勝利を収めました。
会津藩士のお墓
▲会津藩士達は金戒光明寺で眠っている。

戊申戦争によって会津藩は大きな被害を受けました。

学校の教科書では江戸城の無血開城として、東京で戦争が行われることが回避されたことを習いましたので、江戸幕府から明治政府への移行は平和に行われたのかと思っていました。
しかし実際には多くの命が失われており、特に京都守護職に就いた会津藩は大きな被害を受けました。

新政府軍は東京を通過した後に、そのまま東北地方に向けて進軍します。
その目的は幕府側の会津藩を滅ぼすため。
新政府軍を構成する長州藩は、京都で京都守護職や新撰組に大きな被害を受けていました。
そのため長州藩の人達は会津藩のことを深く憎んでいました。
彼らはその怒りを忘れないために、足に履く下駄の裏に会津藩と書いて、足で会津藩を踏んむということをしていたと言われています。

そのため幕府は降参したにも関わらず、新政府軍は戦争を辞めませんでした。
そして会津藩は新政府軍によって再生できないほど壊滅的な被害を受けることになります。
金戒光明寺には会津藩の人達を弔うお墓があり、今でも彼らのこと思う人達から献花が絶えません。
会津墓地から京都市内を望む
▲会津藩墓地から夕日の京都市内を眺める

江戸幕府は悪で明治政府は正義だったのか?

アメリカのペリーが来日した時に、江戸幕府はアメリカと戦うことは非現実的であり、開国することを選択しました。
それは中国がイギリスとアヘン戦争で敗北し、イギリスの植民地にされていくことを見ていたので、近代化を遂げた欧米諸国には力で勝てないことをきちんと知っていたからです。

しかし日本の世論は開国反対でした。
特に当時の天皇だった孝明天皇は外国が大嫌いで、外国人が日本の土地に足を踏み入れるが許せませんでした。
天皇が幕府に反対していることを聞きつけた反開国派の人達が後に明治政府を設立することになるのですが、よくよく考えてみると明治政府がやったことは反開国どころか、より近代化を求めて欧米と貿易も積極的に行いました。
そうであれば幕府に反対などせずに、最初から幕府の開国方針を支持すれば良かったとも思えます。
いったい何のために多くの命が失われたのかわかりません。
会津藩士墓地
▲会津藩士達が眠る墓地

勝てば官軍

勝った側を正義とするならば、江戸幕府は悪で明治政府が正義でしょう。
しかし明治維新の結果を振り返ってみると、本当に明治政府は正義なのでしょうか?
明治政府による近代化政策によって現在の日本があるのは事実です。
明治政府を否定したところで今が変わる訳ではないでしょう。
だけど、明治政府は決して正義の存在ではなかった気がするのです。

明治政府が設立された後も、長州藩の会津藩に対する恨みは収まらず、会津藩は土地を奪われて青森県の下北半島へ移住させられて南部藩という新しい藩をつくりました。
しかし青森県の最北端だったこともあり、農作物が育たず多くの人が空腹で命を落とす事態になったそうです。
いったい会津藩の人達がどんな悪い事をしたというのか?
彼は自分達が悪だなんて決して思っていなかったでしょう。
彼らにとっては新政府軍こそが悪だったはずです。。。

金戒光明寺へのアクセス方法

京都駅から市バスに乗ると約30分ほどで到着です。
(京都駅から岡崎道まで乗車時間:25分。乗車賃:230円)