京都の歴史修学旅行レポート

京都の光明寺の歴史を修学旅行レポートとして提出いたします。

光明寺薬医門

光明寺薬医門
▲光明寺の薬医門

光明寺の歴史を修学旅行レポートとして。

こんにちは。
今回は京都の長岡京市にある光明寺の歴史について記事にしました。

京都府長岡京市にある光明寺(こうみょうじ)は紅葉の美しさで有名なお寺。
光明寺は京都市ではなく京都市から見て南西に位置するお隣の長岡京市にあることから、京都市内の観光スポットに比べて普段はとても静かなお寺です。

しかしそんな静かな光明寺も、紅葉の季節になると多くの人が訪れます。
光明寺には「もみじ参道」と呼ばれる、もみじで囲まれたトンネルのような光景の広がる道や、境内全体が紅葉で真っ赤に染まった光景が人気となっています。
また京都市内から少し離れることで、観光客も少なく落ち着いて紅葉を楽しむことができるところも嬉しいです。

光明寺は京都市内の有名な観光地はだいたい行った方、京都で紅葉を楽しみたいけど人混みは苦手な方にはおススメの場所です。
今回は長岡京市にある光明寺の歴史を修学旅行レポートとして学校の担任の先生に提出つもりで記事にしてみました。

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光明寺もみじの参道

▲光明寺のもみじの参道

誰が光明寺を建てのか?

光明寺は鎌倉時代に熊谷次郎直実(くまがい じろうなおざね)という元武士の方が建てたお寺です。
熊谷次郎直実は鎌倉幕府を設立した源頼朝に仕えた武士であり、当時の武士達の中でも戦いに強く、源頼朝からも一目置かれる武士だったと言われています。

しかし戦でバリバリ活躍していた熊谷次郎でしたが、ある出来事をきっかけにして武士を引退して僧侶になる道を選びました。
熊谷は鎌倉新仏教の一つである浄土宗を設立した法然の弟子となり、僧侶として各地を巡り、そこで暮らす人々に法然の教えを伝えました。
そしてその道中において彼は法然とゆかりのある場所に浄土宗のお寺を建てたことでも知られており、長岡京市にあるここ光明寺もその内のひとつになります。

光明寺もみじ参道薬医門
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光明寺勅使門
▲光明寺の勅使門と信楽庭

光明寺と法然のゆかり

光明寺を建てたのは熊谷次郎直実になりますが、光明寺のある場所は法然が初めて自分の教えを人に伝えた場所となっており、法然にとってはゆかりのある土地でした。

法然は現在の岡山県にて武士の子供として生まれましたが、法然が9歳の頃に父親が同じ地域で領土を争っていた武士に襲われて命を落とします。
その時に法然の父親は遺言として「私の仇打ちは決してするな。武士の道は捨てて僧侶として生きなさい」と死の直前に法然に伝えます。
そして法然は父の遺言の通り僧侶となり、京都比叡山にある延暦寺で修業することを選びました。
光明寺御影堂
▲光明寺の御影堂ともみじ

法然にとって最初の布教場所

法然は延暦寺で何十年も修行を重ねるうちに、世の中の生きることに苦しむ人々を救う方法、自分の考えを生み出したので延暦寺から独立し、自分の信じる教えを世の中に発信することを決めました。

そしてここ光明寺において、法然は初めて自分の教えを人に伝えたと言われています。
学校の教科書にも登場する法然が初めて歴史上に登場した場所として、法然の教えを支持する人達にとっても大切な場所となりました。
また光明寺は法然が亡くなった後に火葬された場所としても知られています。
法然の弟子たちは皆この場所がどういう場所なのかを知っていますので、熊谷は法然の教えを伝えるお寺としてここに光明寺を建てたのでした。

光明寺総門
▲総門

熊谷次郎直実が武士を引退したきっかけ。

熊谷次郎直実には学校の授業でも取り上げられることのある平家物語の中で描かれたあるエピソードが有名です。
源頼朝率いる源氏軍と平清盛の血を受け継ぐ平家軍との戦いにおいて、熊谷は源氏軍の一員として戦に参加していました。
現在の神戸市において戦が行われた時に、熊谷はなるべく位の高い敵の武士を探していました。すると明らかに身分の高そうな鎧を見に付けた武士が逃げていくのを発見します。

当時の戦では位の高い敵を討つほど高い評価と褒美を貰うことができたので、熊谷もただの下っ端の武士より指揮官級の武士と戦いたかったのです。
熊谷はすぐさま逃げようとしている武士を捕まえて、首を切ろうとしました。
しかしその武士の顔を見ると、自分の子供と同じ年齢ほどの少年だったことに熊谷は驚きました。
光明寺表参道
▲表参道

熊谷次郎直実と平敦盛

熊谷はその少年に名前を聞くと、その少年は「名乗る必要はない。さっさと私の首を持っていきなさい。いずれ私が何者だったかわかることでしょう。早く私の首を切りなさい」と堂々と言い放ちました。
少年が武士として覚悟を決めた毅然とした姿勢と、自分の子供の姿が重なってしまい熊谷は少年を逃がすことを考えました。

しかし熊谷が少年の命を絶つことを迷っていると、自分と同じように位の高い敵を狙っていた味方の武士達が迫ってきていました。もし自分がその少年を逃がしたとしても、味方に討たれてしまうことは明白でした。
そこで熊谷は覚悟を決めて、その少年の命を絶ちました。

後にはなってその少年は平清盛と親戚にあたる平敦盛であることがわかりました。
熊谷はこの出来事から自分が何のために武士をしているのか悩むようになり、武士を引退して僧侶になることを決めました。
そして法然と出会い、法然の教えに感銘を受けて弟子になりました。

光明寺鎮守社
▲光明寺の鎮守社の鳥居

熊谷と法然の出会い

法然と言えば南無阿弥陀仏(なみあみだぶつ)と声を出して唱えることで人は死後に誰もが極楽、天国に行けると考えました。
熊谷は武士なので戦の中で何人もの命を奪ってきました。中には自分の子供と同年代の人もいました。そんな自分が死後に天国など行けるはずがないと思っていました。

しかし法然は熊谷に対して、あなたも必ず天国に行けますよと言い切りました。
熊谷はそんな法然の言葉に感動してしまい、今までの自分がしてきたことを償う意味も込めて法然の教えを広めることを決めました。
熊谷は光明寺だけでなく法然とゆかりのある土地にお寺を建てました。
光明寺薬医門
▲薬医門

私にとっての極楽とは

光明寺を訪れる多くの人は、熊谷次郎直実や法然のことなんて知らないと思います。
南無阿弥陀仏と唱えることで天国に行けると言われても、科学の発達した現代に生きる私達には信じることができません。

でも何も考えずに光明寺境内を彩る真っ赤な紅葉を眺めると、その美しさに心が動かされ、普段感じていた嫌なことも一瞬だけでも忘れることができます。
それだけでも明日から少し元気に過ごすことができる気がしてきました。

南無阿弥陀仏とか仏教とか難しいことなんかどうでもよくて、美しい紅葉を見ることのほうが価値のあるもののような気がしました。
天国も地獄も存在しない現代において、光明寺の紅葉の美しさだけが私達を幸せにしてくれた。

光明寺へのアクセス方法

京都駅からJRで大阪方面へ向かう電車で長岡京駅で下車後、光明寺行きのバスに乗って到着。
(京都駅から長岡京駅まで乗車時間:11分。乗車賃:220円 ⇒ バス停の長岡京駅から光明寺駅まで乗車時間:11分。乗車賃:170円 )