▲銀閣寺の銀閣
銀閣寺の歴史を修学旅行レポートとして。
こんにちは。
今回は銀閣寺の歴史について記事にしました。
銀閣寺は世界遺産にも登録されている京都を代表する観光名所。
ところが多くの人にとっては銀閣寺よりも先に金閣寺が頭に浮び、ついでに銀閣寺も頭に浮かんでくるのではないでしょうか?
金色に光輝く金閣寺と比べて木造の銀閣寺は見た目が地味です。
京都旅行に行った際には銀閣寺よりも金閣寺を背景にした写真のほうがインパクトが大きかったりしますよね。
海外からの観光客の反応を見ても、金閣寺のほうが嬉しそうに写真を撮ったり、興奮している人のほうが圧倒的に多いです。
しかし銀閣寺は日本らしさを象徴する和風建築の原点とも言える建物になります。
侘び・寂び(わび・さび)と呼ばれる日本独自の美意識の発展に大きな影響を与えました。
金閣寺と銀閣寺のどちらが好きですか?と聞かれれば、日本人の多くは銀閣寺のほうが好きと答えるのではないでしょうか?
金閣寺に比べて派手さは無くとも、銀閣寺を眺めていると落ち着いた色彩と品の良さを感じて、何だか心が落ち着く気持ちになります。
今回は銀閣寺の歴史について修学旅行レポートを学校の担任の先生に提出するつもりで記事にしてみました。

▲銀沙灘
誰が銀閣寺を建てのか?
銀閣寺は室町時代の1490年頃に室町幕府八代目将軍である足利義政(あしかが よしまさ)によって建てられました。
足利義政は金閣寺を建てた足利義満の孫にあたりまして、銀閣寺を建てる際には祖父が建てた金閣寺に何度も足を運んだと言われています。
祖父と同じ様に自分の権力を誇示するような建物を建築したいと考えたのか?それとも祖父に対抗して別の美しさを表現したいと考えたのか。。。
義政が義満の金閣寺から大きな影響を受けたことは間違いありません。

▲足利義政の肖像画 wikipediaよりお借りしました。
なぜ義政は銀閣寺を建てたのか?
義政が銀閣寺を建てた理由は、室町幕府将軍という立場を捨てて政治の世界から身を引くためとも言われています。
室町幕府は足利尊氏(あしかが たかうじ)によって設立された以降、尊氏の血を受け継ぐ足利家によって代々将軍職が継がれていました。
しかし時代が経つにつれて将軍家よりも武力と財力を持つ武士達が登場し、足利将軍家は飾りもののような立場へと代わっていました。
八代目将軍となった足利義政の頃には将軍家よりも側近の細川氏や山名氏などの有力な武士達が政治を動かすようになっており、義政は政治に対する関心を失っていました。
そして義政は将軍職をさっさと弟に譲り、政治から離れて現在の銀閣寺のある場所に別荘を建てて自分の好きなことをしようと考えました。
▲銀閣を東山から眺める
銀閣寺と呼ばれるのは江戸時代になってから。
当時その別荘は東山山荘と呼ばれていましたが、義政が亡くなった後に義政の法名である慈照から名前を取って慈照寺と名付けられます。
さらに江戸時代になると庶民が国内旅行を楽しむようになり、金閣寺と慈照寺が同じ足利将軍が建てたこと、色は違えど見た目も似ていることから、観光客が金閣寺と比較して銀閣寺と呼ぶようになって現在に至ります。
ちなみに銀閣寺は建設当初から銀箔が貼られていないことが2007年の科学調査によって判明しましたので、建設当初は銀箔が貼られていたとする説は否定されました。
▲向月台
将軍としては無能だった足利義政
足利義政が将軍になった頃には、将軍よりも管領と呼ばれる側近達のほうが権力も財力も上回るような時代となっていました。
義政の時代に応仁の乱が勃発しましたが、義政は戦争の最中も自分の豪邸で酒を飲みながら他人事のように外から聞こえる銃声を聞いていたと言われています。義政は政治に関心が無く、さっさと将軍職を譲りたいと考えていました。
通常であれば義政の子供が次の将軍となるところですが、義政には子供がいなかったために弟の足利義視に将軍職を譲ります。
ところが義尚に将軍職を譲った後に、義政の奥さんである日野富子との間に子供が出来たのです。
すると日野富子は自分の子どもを将軍にするために有力な武士達に助けを求めます。
さらに側近の武士達の間では誰が権力を握るかで争っていたこともあり、義政の後継者争いをきっかけに将軍家と武士達も巻き込む大戦争へと発展。それが応仁の乱です。
義政の弟である義視には山名持豊などの有力者が味方し、日野富子と義政の息子である義尚には細川勝元などの有力者が味方して京都を戦場とした戦いが約11年も続くこととなりました。
そんな中でも義政は我関せずで、自分の別荘である銀閣寺の建てるお金が無いからと言って、戦争で苦しむ人々に税金を課せてお金を集めました。
義政が歴代の将軍の中でも無能と呼ばれる由縁は、将軍としての仕事を放棄して自分の趣味に没頭していたからでした。
▲銀閣
日本文化に大きな影響を与えた足利義政
将軍として無能だった足利義政ですが、日本文化の分野では大きな功績を残しました。
義政が建てた銀閣寺は東山文化を象徴する建物となっており、現在の私達が和風と感じる文化の原点を築きました。
銀閣寺の境内には義政が書斎として使用していた東求堂と呼ばれる部屋が残っています。内部は四畳半の畳に襖や障子、違い棚などが備わった書院造りとなっており、目の前には枯山水庭園が広がる現在の茶室や和室に通じる構造を持つことから、現在の和室の原形がこの頃に出来上がったと言われています。
書院造りが完成したことで部屋を飾る生け花や掛け軸、襖絵や書道などが発達するだけでなく、部屋で楽しむ茶道や狂言や連歌なども発達しました。
▲銀閣寺の東求堂
好きなことで生きた義政
また義政は銀閣寺に多くの芸術家を招いて文化交流を促しました。
茶道や華道、書道や能など各分野で一流の人達を銀閣寺に招いては楽しい毎日を送っていたと言われています。
ここで生まれた文化を東山文化と呼び、後世の建築物や文化面に大きな影響を与えました。
当時の社会は室町時代から戦国時代へと激動の時代へ移り変わろうとしている中で、義政は将軍としては何もしていませんが、日本文化の発展には大きな貢献をしました。
それは銀閣寺が建設された1490年頃から約500年が経った現在でも、日本だけでなく海外から多くの観光客が銀閣寺を訪れていることが物語っています。
銀閣寺へのアクセス方法
京都駅から銀閣寺へはバスで行くのが最も迷わない方法です。
京都駅前のバスターミナルから銀閣寺行きのバスに乗れば到着です。
(乗車時間:約30分。 乗車賃:230円)
個人的には観光シーズンのバスは渋滞に巻き込まれたり、満員バスだったりするので極力乗りたくないのですが、銀閣寺は近くに電車の駅が無いのでバスでしか行くことができません。(^^;)
銀閣寺を見終わったら哲学の道を歩きながら紅葉の美しさで有名な永観堂や南禅寺まで行くことがおススメです。