▲南蛮寺跡石碑
南蛮寺の歴史を修学旅行レポートとして。
今回は南蛮寺の歴史について。
南蛮寺は安土桃山時代の教会です。
織田信長がキリスト教の布教を許可したことで建てられました。
①織田信長が許可
②本能寺の変を目撃
③江戸時代には取り壊し
▲南蛮寺跡前
イエズス会の宣教師達が南蛮寺を建てた
京都の南蛮寺は1576年に建てられました。
建設許可は織田信長が出しましたが、
キリスタン大名の高山重友や、商人達の援助によって南蛮寺は建造されました。
京都の南蛮寺は木造建築の3階建てとなっており、
建物内は礼拝堂が整備されていたと伝わっています。
宣教師達が母国に送った手紙には、
西洋の教会にも劣らない立派な建築物だったと記されています。
当時の南蛮寺を描いた「都の南蛮図」という美術作品画が残っており、
南蛮寺が3階建ての立派な建物だったことがわかります。
▲本能寺跡
なぜ織田信長はキリスト教布教を許可したのか?
豊臣秀吉や徳川家康がキリスト教を弾圧したのに対して、
信長はキリスト教に寛容でした。
信長は海を渡ってヨーロッパからやって来た宣教師達の話を聞く中で、
長距離を移動できる立派な船を造る技術、遭難せずに航海できる知識、
地球が丸いという知識や鉄砲や時計などを作る技術など西欧の優れた点と、
自分達が劣る部分も瞬時に理解しました。
信長以外の武将達は宣教師達を危険な存在と見なして拒絶する中で、信長は彼らの知識を冷静に利用価値があると計算できました。
宣教師の目的は信者を増やして日本を植民地化することだったので、信長がキリスト教に関心があることに影で喜びました。
しかし信長も延暦寺を焼き打ちにするなど神様や仏様の存在を早々に否定していたと考えられるので、もちろんキリスト教の神様も信じていませんでした。
冷静に西洋の優れた知識と技術を利用し、自分の軍が他の武将達よりも優位な立場になるために最大限利用しました。
そして秀吉や家康の時代にはキリスト教信者達が増える一方で、宣教師たちが裏で日本人を奴隷として海外に売りまくっていることが判明し、一気にキリスト教は禁止になりました。
当時の欧米諸国では黒人だけでなく日本人も奴隷としてこき使われていました。
▲本能寺跡へと続く道
本能寺の変の一部始終を見ていた南蛮寺
南蛮寺から西へ徒歩5分の場所に本能寺がありました。
現在でも南蛮寺跡の前を通る道、蛸薬師通(たこやくし通り)沿いに本能寺跡があります。
ただし現在の本能寺跡には老人ホーム「本能」が建っています。。。
南蛮寺と本能寺は距離的にも近く、南蛮寺は3階建てだったことから南蛮寺にいた宣教師たちは本能寺の変を3階から眺めていたと言われています。
宣教師たちが母国へ送った手紙には信長に矢が当たると、信長が部屋の中に入っていったのを見ていたとする内容が書かれています。本当に見えたのかわかりませんが。。。
信長が討たれたことが知れ渡ると、京都近くで活動していた宣教師たちは南蛮寺に逃げてきたと言われています。
▲本能寺跡を示す石碑
本能寺の変の真相
明智光秀が本能寺の変が起こした要因はいくつかあります。
その1つにイエズス会が光秀にお願いしたとする説があります。
私は「本能寺の変431年目の真実」という本が好きなので、
秀吉が黒幕だった話が好きです。
本能寺の変は色々な要因を語り合える事件ですので、
本を読んだ方と語り合いたいですね♪
南蛮寺跡へのアクセス方法
京都駅から地下鉄で四条駅で降りると徒歩5分で到着。
(京都駅から四条駅まで2駅。乗車時間5分。乗車賃230円。)
南蛮寺跡と書かれた石碑しかないので、食事や買い物で四条駅に寄った際についでにさっと足を伸ばす程度で良いと思います。