京都の歴史修学旅行レポート

南蛮寺の歴史を修学旅行レポートとして提出いたします。

南蛮寺跡蛸薬師通り

南蛮寺跡石碑
▲南蛮寺跡石碑

南蛮寺の歴史を修学旅行レポートとして。

こんにちは。
今回は南蛮寺の歴史について記事にしました。

南蛮寺(なんばんじ)は安土桃山時代に織田信長がキリスト教宣教師に対して、京都でキリスト教の布教を許可した教会の日本版です。
南蛮とは現在で言うところのヨーロッパのことを意味しており、当時の人達はスペインやポルトガルからやって来た宣教師を南蛮人と呼んでいました。

1543年に鹿児島県種子島にポルトガル人が鉄砲を伝えて以来、ヨーロッパの宣教師たちがキリスト教の布教を目的に日本を訪れて日本各地に教会を建てていました。

しかし豊臣秀吉や徳川家康の時代になるとキリスト教の布教は全面禁止となり、日本にある全ての南蛮寺が取り壊されたので日本に南蛮寺は残っていません。
残念ながら京都にはかつて南蛮寺があったことを示す石碑だけがひっそりと残っているだけとなっています。

今回は南蛮寺の歴史について修学旅行レポートとして、学校に提出するつもりで記事にしてみました。

南蛮寺跡蛸薬師通り
▲南蛮寺跡は普通に建物が建っています。

誰が南蛮寺を建てたのか?

京都の南蛮寺は1576年に建てられました。
南蛮寺を建てたいと考えたのは宣教師たちでしたが、残念ながらお金がありませんでした。
当時の京都を支配していた信長から許可は得ていました。
そこで既にキリスト教の信者となっていたキリスタン大名の高山重友や、お金持ちの商人達の援助によって南蛮寺は建造されました。

京都の南蛮寺は木造建築の3階建てとなっており、建物内はキリスト教徒たちがお祈りできるように礼拝堂が整備されていたと伝わっています。
宣教師達が母国に送った手紙には、西洋の教会にも劣らない立派な建築物だったと記されています。
当時の南蛮寺ではキリスト教の布教活動だけでなく、西洋医学を身に付けた医師による診察や、ヨーロッパの衣服の販売も行われていました。
当時の南蛮寺を描いた「都の南蛮図」という美術作品画が残っており、南蛮寺が3階建ての立派な建物だったことがわかります。

本能寺の変跡
▲本能寺の変が起きた土地には老人ホームが営業しています。

なぜ織田信長はキリスト教布教を許可したのか?

豊臣秀吉や徳川家康がキリスト教を弾圧したのに対して、信長はキリスト教に寛容でした。
現代人で信長が好きな人は、当時としては珍しい信長の柔軟性を評価します。
信長は海を渡ってヨーロッパからやって来た宣教師達の話を聞く中で、長距離を移動できる立派な船を造る技術、遭難せずに航海できる知識、地球が丸いという知識や鉄砲や時計などを作る技術など西欧の優れた点と、自分達が劣る部分も瞬時に理解しました。

信長以外の武将達は宣教師達を危険な存在と見なして拒絶する中で、信長は彼らの知識を冷静に利用価値があると計算できました。
宣教師の目的は信者を増やして日本を植民地化することだったので、信長がキリスト教に関心があることに影で喜びました。

しかし信長も延暦寺を焼き打ちにするなど神様や仏様の存在を早々に否定していたと考えられるので、もちろんキリスト教の神様も信じていませんでした。
冷静に西洋の優れた知識と技術を利用し、自分の軍が他の武将達よりも優位な立場になるために最大限利用しました。
そして秀吉や家康の時代にはキリスト教信者達が増える一方で、宣教師たちが裏で日本人を奴隷として海外に売りまくっていることが判明し、一気にキリスト教は禁止になりました。
当時の欧米諸国では黒人だけでなく日本人も奴隷としてこき使われていました。

本能寺跡蛸薬師通り
▲本能寺跡へと続く道

本能寺の変の一部始終を見ていた南蛮寺

南蛮寺から西へ徒歩5分の場所に本能寺がありました。
現在でも南蛮寺跡の前を通る道、蛸薬師通(たこやくし通り)沿いに本能寺跡があります。
ただし現在の本能寺跡には老人ホーム「本能」が建っています。。。

南蛮寺と本能寺は距離的にも近く、南蛮寺は3階建てだったことから南蛮寺にいた宣教師たちは本能寺の変を3階から眺めていたと言われています。
宣教師たちが母国へ送った手紙には信長に矢が当たると、信長が部屋の中に入っていったのを見ていたとする内容が書かれています。本当に見えたのかわかりませんが。。。
信長が討たれたことが知れ渡ると、京都近くで活動していた宣教師たちは南蛮寺に逃げてきたと言われています。
本能寺跡石碑
▲本能寺跡を示す石碑

本能寺の変が起きた雰囲気なし

現在は南蛮寺も本能寺も実在しておらず、普通の住宅街の中にひっそりと石碑が残っているだけとなっています。
※本能寺は豊臣秀吉が別の土地に再建されていますが、現在の本能寺のある土地で本能寺の変が起きたのではありません。

本当にこの近くで日本史に残る大事件が起きたという雰囲気は感じないのですが、南蛮寺跡から本能寺跡まで歩いてみると地元の人が普通に生活している光景に逆に驚きました。ここで生活している人にとっては、そんな大昔のことを言われても関係ないですよね。笑
石碑が残っているだけの光景に何だか寂しさを感じますが、「昔のことよりも今が大事でしょ。」とあらためて感じた次第です。(-.-)

南蛮寺跡へのアクセス方法

京都駅から地下鉄で四条駅で降りると徒歩5分で到着。
(京都駅から四条駅まで2駅。乗車時間5分。乗車賃230円。)

南蛮寺跡と書かれた石碑しかないので、食事や買い物で四条駅に寄った際についでにさっと足を伸ばす程度で良いと思います。