京都の歴史修学旅行レポート

京都吉田神社の歴史|吉田神道と大元宮かつての繁栄と栄光

吉田神社境内

吉田神社大元宮
▲大元宮

京都吉田神社の歴史|全国の神社を支配した存在

今回は吉田神社の歴史について。

節分祭で有名な吉田神社。
明治時代以前には吉田神道を確立したことでも知られています。

吉田神社の歴史

①吉田神道とは
②全神社を統制する存在
③元々は藤原氏の神社
④現在は節分祭で有名

吉田神社本宮前
▲本宮前

吉田神道の確立

吉田神社は平安時代の859年に藤原氏の氏神を祀る神社として建てられましたが。
最大の見所は吉田神道を布教したところですので。
先に吉田神道についてレポートさせて下さい。

明治時代以前に吉田神社は日本で最高の神社だった時代があり。
全ての神社の中で吉田神社が最高の存在で。
天皇が祀る伊勢神宮よりも吉田神社のほうが実質的には格上のような時代がありました。

吉田神社が勝手に言ってる訳ではなく。
朝廷や幕府からも正式に最高の地位を認められた。
江戸時代には「諸社禰宜神主法度」という法律によって。
神職の服装が全て吉田神社の承認が必要になった時代もあります。

また宗源宣旨と呼ばれる神社の格付を吉田神社が決めていた時代もあり。
天皇しか発行できない宣旨を吉田神社が発行していました。

吉田神社大元宮の茅葺屋根
▲茅葺屋根

大元宮

そんな全神社の頂点に君臨する吉田神社を象徴する建物があります。
斎場所大元宮と呼ばれる異質な建物。

私は八角形の独特な姿に派手過ぎる印象を受けてしまうのですが。
日本の八百万の神々を全て祀る大元宮。

現在の大元宮は1602年の再建された重要文化財。
茅葺屋根で独特な堅魚木も特徴的。
日本で一番の神社を主張するのも納得の建物。

吉田神社大元宮前
▲大元宮前

吉田兼俱という天才

吉田神社が全国の神社で一番となったのは。
ある1人の天才が独自の理論を創造したからです。

室町時代に活躍した吉田兼俱(吉田かねとも)によって吉田神社は飛躍します。
吉田兼俱は宗源一実神道と呼ばれる独自の理論を創造。

その中身は吉田神社が全ての神社を支配することの正当性を主張するもので。
現代の私達にとっては胡散臭いと感じてしまう話ですが。
当時の人々は信用してしまいました。

吉田兼俱を輩出した吉田家は日本神話や歴史に詳しい一族。
古事記や日本書紀を代々受け継いできた家柄であり。
貴族達が吉田家に教えて貰うような存在でした。

そんな吉田家出身の吉田兼俱が言うことに誰も反論できなかった訳です。
さらに当時の南北朝時代から室町時代は戦乱の中で朝廷もお金が無く。
お金を納めてくれる吉田家に色々と自由にやらせていました。

吉田神社境内
▲境内

明治政府により格下げ

江戸幕府にも全国の神社を統制できる地位を認められていましたが。
明治時代に普通の神社になります。

明治政府が直に神社を管理することを目指しましたので。
明治政府によって吉田神社の特権は全部取り上げられます。

そこから吉田神社は普通の神社になりまして。
現在では存在感も薄くなり。
2月の節分祭でニュースに登場するくらいです。

吉田神社本宮
▲本宮

始まりは藤原氏が祀る神社として

最後に吉田神社の創建当初に戻ります。
吉田神社は藤原氏が祀る神社として建てられました。

藤原氏が祀る神社は奈良の春日神社、京都の大原野神社でしたが。
京都市内からどちらも遠く、もっと京都から近い場所が便利でした。

藤原山陰という人がほぼ現在の場所に春日神社から神様を勧請し。
吉田神社が誕生しました。

吉田家は吉田神社を管理する宮主と呼ばれる神職として働いていまして。
吉田家が代々受け継いでいきます。

吉田家は藤原氏の下で日々の神社を管理していた訳で。
藤原氏から預かってる立場でしたが。

南北朝時代から室町時代頃から神主となります。
吉田家だけでなく、他の神社でも同じような神主が登場していたそうです。

戦国時代ならでは。
人の物は奪って強く生きるのだ。

吉田神社へのアクセス方法

吉田神社は京都大学の隣にありますので。
京都大学行きのバスに乗るのが良いです♪
京都駅から東山通経由の北大路駅行きのバスに乗りましょう。