京都の歴史修学旅行レポート

本能寺の変の真相を修学旅行レポートとして提出します。

本能寺跡石碑

本能寺の変跡
▲本能寺の変が起きた場所は老人ホームとなっている。

本能寺の変の真相を修学旅行レポート

こんにちは。
今回は日本史の中でも未だに原因が謎となっている本能寺の変について記事にしました。

本能寺の変がどんな出来事だったのかを知らない人は日本にはいないと思います。戦国時代の武将である織田信長が天下統一を目前にして、部下の明智光秀の裏切りにより討たれてしまった事件です。

しかし明智光秀は信長を打ち取ってから約10日後には、同じく織田信長の部下だった豊臣秀吉に討たれてしまうのです。
光秀があっけなく秀吉に討たれてしまったことで、光秀は事前に計画を立てずに突発的に行動を起こしたのか?出身や家柄に関係なく実力で評価される信長軍の中で光秀は最も優秀な部下として信長の側近を務める程の人物だったのに何故?と光秀が本能寺の変を起こした真相は未だに謎のままとなっております。

今回は実際に本能寺の変が起きた本能寺跡を訪れたので、本能寺の変の真相について修学旅行レポートを担任の先生に提出するつもりで記事にしてみました。


明智光秀肖像画
▲明智光秀肖像画 wikipediaよりお借りしました。

多くの人が知る本能寺の変のあらすじ

私が本能寺の変について知っていることは、学校の授業で習ったことや大河ドラマや漫画から影響を受けたものになります。世の中の多くの人も同じなのかと思います。

織田信長は戦争と言えば馬に乗って刀や槍を振り回すものだったところに、一早く鉄砲を導入して次々と敵を倒していく男の中の男、戦国時代のカリスマという一面を持つ一方で、延暦寺を焼き打ちにするなどの残虐な恐ろしい顔も合わせ持つ武将です。

またリーダーとしての才能も持ち、豊臣秀吉のような農民出身の者であっても実力があれば身分に関係なく出世させました。
大河ドラマなどでも初めて信長と秀吉が顔を合わせるシーンは良く演じられますよね?寒い冬場で秀吉は信長が履く草履を自分の胸で温めておいて、信長が草履を履く時に冷たく感じないようにしていた場面を見たことある人は多いのではないでしょうか。
本能寺跡石碑
▲本能寺跡を示す石碑

敵は本能寺にあり

一方で明智光秀は信長の側近であるにも関わらず、信長から怒鳴られたり、酷い仕打ちを受けることが多く、光秀が信長に対して敵対心を募らせていく場面が良く描かれます。

そして延暦寺を焼き打ちにする信長の残虐性を危険視するようになり、頭も良く日本の伝統文化や天皇家を大切にする気持ちを持つ光秀は信長が将来日本の体制を大きく変えることを予測して悩んだ末に信長を討つことを決断します。

「敵は本能寺にあり!」と光秀の名セリフを一度は聞いたことがあるでしょう。光秀は中国地方で戦争中の秀吉の援軍として京都を出発したにも関わらず、突然京都へと進軍方向を変更し、防備が手薄になっていた信長が宿泊中の本能寺へと一気に侵攻して信長を討ち取ることに成功したのでした。

以上が私が知っている本能寺の変のあらすじになります。
本能寺の変431年目の真実
▲本能寺の変431年目の真実

多くの人が知る本能寺の変のあらすじは豊臣秀吉が都合良く作ったもの。

最近読んだ「本能寺の変431年目の真実」の中では、作者の明智憲五郎さんは明智光秀の子孫として光秀が本能寺の変を起こした理由を考察しておられます。

本の内容について詳細を書くことはできませんが、その内容はとても画期的でワクワクしながら本を読むことができました。
ざっくり言うと明智光秀と徳川家康が組んで信長を討つ計画だったものの、光秀が信頼していたある人物が当日に現れないばかりか、計画が事前に豊臣秀吉に漏れてしまった。。。

そんな馬鹿な!と驚く展開なのですが、明智憲五郎さんが何故そういう結論に至ったのかを本の中で証明しておられます。興味がある方は是非一度読んでみて下さい。

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本能寺の変跡石碑
そしてこの本の中では私達がよく耳にする本能寺の変のあらすじの出元は、全て豊臣秀吉が明智光秀を討ってから4か月後に世の中に広めた「惟任退治記」であることを指摘します。

惟任(これとう)とは明智光秀が朝廷から与えられた職位の名称のことなので、つまり光秀を退治した記録書になる訳ですがこの本の内容をまとめたのが豊臣秀吉なのです。

豊臣秀吉にとって都合の良い内容に編集されており、当時はテレビも新聞も発達していない時代なので、秀吉が出したこの本の中身だけが真実として世の中に広まります。

大河ドラマなどで本能寺を明智光秀軍に取り囲まれた時に、信長が明智軍の旗の模様を見ては謀反を起こした犯人が光秀であることを理解すると「是非に及ばず」と述べるシーンが必ずありますが、よくよく考えてみると今から死ぬ直前の信長の言葉を誰が聞いたのでしょうか?

また光秀が信長をずっと恨んでいたから謀反を起こしたとする理由も、惟任退治記に書かれたことが最初なのです。
本能寺跡の老人ホーム
▲本能寺跡に建つ老人ホーム

部下達の本音

秀吉にとって都合の良いこととは、本能寺の変は信長を恨んでいた明智光秀だけが悪者で、光秀が単独で突発的に起こしたとすることで、本当は光秀の計画に関わっていた人も無実にすることができました。

実は信長の部下達の多くは信長が中国大陸に進出する野望に危機感を覚えていました。
信長軍は優秀な人材が多くいましたが、優秀な人は常に敵国と接する戦いの最前線の土地に派遣され続ける宿命がありました。

日本を支配下に置くまでは常に家族と共に危険な土地へ行き続ける必要があり、負担は大きなものでした。
天下統一を果たせば戦いから解放されますが、中国大陸まで進出するとなれば今度は海を渡ってさらに危険な土地へ行き続けなければならず、武将達に平穏な生活が訪れることはありません。そのため光秀は自分の家族や明智一族が平和に過ごせるようにするために信長を討ったという結論に達するのです。
お金の流れで読む戦国時代
▲お金の流れで見る戦国時代

土地政策から見る本能寺の変の真相

また最近読んだ「お金の流れで見る戦国時代」という本では織田信長の土地政策が本能寺の変の原因となったと指摘されていました。

当時の武士達が命を懸けて戦争に向かう理由は、活躍すれば褒美として自分の土地が与えられるからです。
与えられた土地に田んぼや畑があればそこからの収穫物はその武士の物になりますし、その土地が商売の盛んな場所なら商人達から税金を徴収できますし、その土地に綺麗な女性がいれば無理やりにでも自分の奥さんできます。
そして武士達は勝ち取った土地を先祖代々守っていくことを大切にしていました。

しかし信長は土地を与えるのではなく、土地は全て信長のものとして、その土地を管理させるという当時としては画期的な制度を導入しました。現代で言うところの会社員が全国を転勤するように、信長の部下達は各地にある信長の土地の管理を任されるようになりました。

現代の会社組織と近いこともあり、私達にとっては信長の制度は馴染みのあるものに感じますが、当時の武士達には受け入れることのできない重要な問題でした。
織田信長肖像画
▲信長肖像画 wikipediaよりお借りしました。

戦国時代には信長の考え方が先進すぎたことが部下の不満を生んだ。

一度与えれらた土地から離れるという考え方を受け入れることができない武士がたくさんいたのです。

しばらく後になった豊臣秀吉の時代に、ある武将が先祖代々守ってきた土地から新しい土地への移動(転封)を命じられたのですが、拒否したことで秀吉に切腹させられた者も出てきました。
ちなみにその武士の移動先は今の土地よりも数倍の広さを持ち、秀吉も大きな褒美のつもりで与えたものでしたが、その武士にとっては先祖代々守ってきた土地が大切だったのです。

そのため信長の部下達は実は信長の土地政策に不満を持っていたのです。
光秀は信長の側近として京都から近い滋賀県や京都北部の土地を与えられていましたが、本能寺の変が起きる直前に中国地方への転封を言い渡されていました。もちろん今の土地の広さよりも数倍の面積を持つ土地でした。
本能寺にある信長菩提
▲秀吉が建てた本能寺にある信長の菩提塔

部下達にとっては恐怖の中国大陸への野望

しかし光秀には将来への不安がありました。先ほどの「本能寺の変431年目の真実」でも述べられていましたが、信長には日本を統一した後は海を渡って中国大陸に進出する野望がありました。

そのため信長の部下達はいずれは中国大陸の最前線に送りこまれる運命が待っているのです。信長の部下である限りは平和な暮らしは訪れません。
転封は自分の部下達だけでなく、もちろん自分の家族達も移動しなければなりません。
光秀にはそれが我慢できませんでした。そのために本能寺の変を起こしたのです。

つまり本能寺の変が起きた真相は、信長の壮大な支配地域の拡大計画とそれに伴う土地政策によって永遠に危険地帯の最前線に送りこまれる部下達の反乱だったということです。

今までは光秀が謀反を起こした要因は信長が延暦寺を焼き打ちにした残忍性を危険視したとか、信長が天皇の座を狙っているとか、信長が光秀に対して怒鳴ったり酷い仕打ちをされて恨んでいるとか、光秀の内面を考える話が多かったと思います。

一方で最近読んだ本の中では土地政策という信長が考えた新しい制度を原因とする新しい考え方を学ぶことができました。
でも結論としては本能寺の変の真相は解明されていないので、新しい資料が発見されることを期待するしかないのが歯がゆいです。(^^;)

本能寺跡へのアクセス方法

京都都から市営地下鉄で四条駅で降りた後に徒歩15分ほど。現在は本能寺跡には老人ホームが建っていて悲しくなります。(^^;)

本能寺へのアクセス方法

豊臣秀吉によって新たに再建された本能寺は別の場所に建っておりまして、四条駅から徒歩20分ほどで着くことができます。